21章8 内面的な変化

The Inner Shift

私たちのこの現実では、永遠に続く幸せや喜びというものはありません。
初めて手にしたときには輝いていたものも、いつしか色あせてしまいます。
しかし、実在の世界にあるのもは、永遠に喜びの波動で打震え、幸せが続きます。
その波動は今も私たちの内にあるのですが、私たちは隔離された世界だけを見ているので、
あることがわからないまま生きています。

The constancy of joy is a condition quite alien to your understanding.
絶え間なく喜びをいだきつづけるということは、あなたの理解しているのとは、
きわめてかけ離れた状況だといえる。

Yet if you could even imagine what it must be,
you would desire it although you understand it not.
だが、もしそれがどんなものか想像できさえすれば、
たとえ理解できなくてもそれを切望することだろう。
・・・
It comes as surely unto those who see the final question is necessary to the rest,
as peace must come to those who choose to heal and not to judge.
不変なるしあわせは、最後の質問が残りの質問に必要だとわかる者には必ず来るし、
それは裁くことではなくて癒すことを選ぶ者は、
かならず心の平安を得られるというのと同じである。

私たちの内にすでにあるのですから、真に願えばそれは叶うのですが、
それが現実になっていないのなら、私たちはまだ本当に願っていないのです。

For he does not desire it while he remains uncertain,
and God's giving must be incomplete unless it is received.
確信が無いうちは、切望してもいないのだし、神が何を与えようとなさっても
受け取ってもらえなければ、完全に与えたことにはならないのである。
・・・
What is the holy instant but God's appeal to you to recognize
what he has given you?
聖なる一瞬とは、神があなたに授けられたものを、
あなたに気づいてほしいと訴えておらえる瞬間にほかならない。

So be it

21章7 答えられていない最後の質問

The Last Unanswered Question
The Last Unanswered Question

Do you not see that all your misery comes from the strange belief
that you are powerless?
あなたは、惨めな思いというものはすべて、自分は無力だ、
という奇妙な信念を抱いていることから生じるとは気づかないのだろうか。
Being helpless is the cost of sin.
どうしようもないような気持ちになるのは罪の代償だといえる。

自分が惨めとか無力であると感じるのは、よくあることです。
そうして、落ち込んだり、ひどくなると鬱になることもあります。
ここでは、無力であると感じる人に、罪があるといっているのではありません。
罪があると思い込んでいる、自己否定をしているということを言っているのです。
ここでも、自分が何を選択しているのかよく見なさい、ということを教えています。

No one believes the Son of God is powerless.
だれ一人、神の子が無力だと信じる者はいないだろう。
・・・
Could he admit that no one made him powerless?
その人には、自分の無力さはだれのせいでもないと認めることができるだろうか。

どうして自分は無力だと思ってしまったのか、どうして攻撃されていると思うのか、
どうして敵がいると思うのか、どうして憎しみが湧いてくるのか。
奇跡のコースでは、その理由を探る必要はないと教えています。
そうではなくて、自分が何を欲しいと思っているのかをよく見なさい、
選択しなさいと教えています。

人生でいつも同じ問題が起き、それが自分のパターンであり、根本にあるのは、
無力感とか無価値観だと気づいても、なかなかそこから抜け出せないものです。
しかし、奇跡のコースではその段階を抜けていく方法を教えてくれるのです。
自分にこう質問してみなさい、と。

Do I desire a world I rule instead of one that rules me?
自分があやつられる世界ではなくて、自分で支配する世界を望むだろうか。

Do I desire a world where I am powerful instead of helpless?
無力な自分ではなくて、力強い自分がいる世界を望むだろうか。

Do I desire a world in which I have no enemies and cannot sin?
一人の敵もいなくて、罪を犯すことなどできない世界を望むだろうか。

And do I want to see what I denied because it is the truth?
そして、自分が否定してきたものはまさに真実そのものなのだが、
それを見たいと思うだろうか。
・・・
Yet the last question adds the wish for constancy in your desire to see the real world,
so the desire becomes the only one you have.
だが、最後の質問は実相の世界を見たいというあなたの望みに、
それを不変的なものにしたいという思いも加えたので、
その望みがあなたの唯一の願いとなる。
私たちは、人が悪いと責めたり、無力感に浸ることがありますが、
それが自分のみたい世界なのか、という問いかけると、
はっと気がつくことがあるのではないでしょうか。
ここでは、真実が見たいと思う、それを忘れないようにと教えています。

So be it

21章6 理性対狂気

Reason versus Madness

21章5で、理性( reason)という言葉が出てきました。
これは、道理、正気というふうにも訳せます。
間違った知覚から判断し、肉体を自分であると教えるのが
自我( Madness 狂気)であるとすれば、聖霊の声を素直に聞き入れ、
実在を取り戻したいと願う自分、それを理性( Reason) と名付けています。

Reason does not attack, but takes the place of madness quietly,
replacing madness if it be the choice of the insane to listen to it.
理性は攻撃などせずに、ただ正気を逸したものが理性に耳を傾けることを選ぶなら、
穏やかに狂気に取って代わる。

Nor could you see it, if you heard the voice of reason.
もし理性の声が聞こえたら、からだは見えない。

What can there be that stands between what is continuous?
いったい何が、少しも切れ目のないものの間に入り込めるというのだろう。
・・・
That you are joined to him is but a fact, not an interpretation.
あなたがその人と一つに結ばれているということは、単なる事実であって、
解釈上のことではない。

私たちがワンネスであるというのは、解釈上のことではなくて、
単なる事実であるというのは面白ですね。
超微細なレベルで見れば私たちはすべてつながっているわけで、
その境界線など存在しません。目の前の机やパソコン、観葉植物、壁、窓、
空気、すべてとつながって存在しているのですから。
それは解釈ではなく、厳然たる事実であるということです。

Neither your brother nor yourself can be attacked alone.
あなたのきょうだいとあなた自身、
二人のうちの一人だけが攻撃されるということは有り得ない。

So be it

21章5 理性の働き

The Function of Reason

今、聞こえるもの、目で見ているものは、すべて自分がそうであると信じている
ものであり、実在とは違います。
自分で見たいものを見ているのが、この現実の世界です。

Perception selects, and makes the world you see.
知覚作用はほしいものを選び出し、そうしてあなたの見ている世界を作り上げる。
・・・
Perception is a choice and not a fact.
知覚することは事実ではなくて選択したことだといえる。

そして、自分についても、私たちは間違った選択から評価を下します。

Listen to what the ego says, and see what it directs you see,
and it is sure that you will see yourself as tiny, vulnerable and afraid.
自我の言い分に耳をかし、見るように仕向けられることを目にすれば、
あなたが自分自身を、ちっぽけで傷つきやすく臆病者だと思うのは確実。

You will experience depression, a sense of worthlessness,
and feelings of impermanence and unreality.
意気消沈し、価値のない存在のように思え、
はかない夢のなかにいるような気がしてくることだろう。
・・・
And you will think the world you made directs your destiny.
そのうえあなたは、自分のでっち上げた世界が、
自分の運命を決めるものと思うようになる。

日常で自分が価値のないちっぽけな存在だと思うことはよくあることです。
自分の価値なんでこんなものだ、周りのみんなもそう思っている、と。
そして、運命には逆らえない、自分ではどうしようもないのがこの現実だと。
しかし、これは真実ではありません。
何を信頼するのか、その選択によって見え方は一変します。

There is another vision and another voice
in which your freedom lies, awaiting your choice.
あなたがもう一つの洞察力ともう一つの御声とを選択しさえすれば、
自分の自由を見いだせるのであり、その二つはただあなたが選ぶのを待ち受けている。

And if you place your faith in them,
you will perceive another self in you.
そしてもしあなたがその二つを信頼すれば、
自分のうちにもう一つの自己を知覚するようになる。

You must have set aside a place
in which the Holy Spirit can abide, and where he is.
聖霊の居場所、聖霊が待機している場が、きっとあなたの心のすみにある。
・・・
Faith and belief, upheld by reason,
cannot fail to lead to changed perception.
理性に支えられた信頼心と信念があれば、
かならず新たな知覚のしかたをするようになるはずだ。

こうして、私たちは洞察力で世界を見るようになり、
自分の役割や目的、それを達成する手段なども、はっきりと見えてくるようになるのです。

So be it

21章4 内面を見つめることに伴う恐怖

The Fear to Look Within

You are indeed afraid to look within and see the sin you think is there.
あなたが本当に怖がっているのは、心の中をのぞいて、
そこにあるものと思い込んでいる罪を見ることである。
・・・
Your faith that sin is there but witnesses to your desire that it be there to see.
心の中に罪があるとあなたが信頼しているとすれば、
そこにあって欲しいという自分の願いを証明しているにすぎない。

奇跡のコースを学ぶとは、それは自分の内面を見つめることであり、
罪や恐怖をみることです。学び始めると、自分がいかにこの世界や
人間関係を歪んだ知覚で見ていたのかに気づきます。
少しずつ聖霊に耳を傾け、歪んだ知覚ではなく、
正気( reason )へと意識は移行します。
そして、もはや、内面を見ることも怖れません。

The Holy Spirit's purpose was accepted by the part of your mind
the ego knows not of.
聖霊の目的は、あなたの心のある部分に受け入れられたのだが、
その部分のことを自我はわかっていない。

・・・
What matters it to you how loudly it is proclaimed?
自我がどんなに大声でさけんでも、あなたには少しも関係ない。
・・・
Follow it happily, and question not what must be so.
その道をよろこびながら歩んで行ってほしい、
そして確実であるに相違ないことを疑う必要はないのである。

私たちの中にある本当の自分のすがたを求める気持ち、
どこかにあるはずの完全なる調和の世界、そのかすかな記憶が聖霊を受け入れ、
歩みを進ませてくれるのです。

So be it

21章3 信頼と信念と洞察

Faith, Belief and Vision

Faith and belief and vision are the means by which the goal of holiness is reached.
信頼し、信念をいだき、洞察力で見るという方法によって、
神聖なるものを自分のものにするという目標に達せる。

聖霊を信頼し、その訂正を受け入れる。そうすることで自分自身も、
また周囲に与える影響も変えていくことができます。
信頼という力は大きいので、間違った選択をして、
罪を本当のこととしないようにと奇跡のコースでは教えています。
信頼をどこに置くのかが大切であるということです。

For faith and vision and belief are meaningful only before the state of certainty is reached.
信頼や洞察や信念というものは、ただ確信をもてる状態に達するまで有意義なだけであるから。

実在にあれば、信頼することは必要ありません。常に確信をもって在るからです。
しかし、実在を忘れてしまったとき、信頼とか信念という考えが生まれたのです。
ですから、実在に戻れば、信頼、信念、洞察の3つは必要なくなると教えています。
知覚に替えて、洞察力で見始め、人の中にある神聖さを信頼する。このように生き始めると、
目覚めへの道を歩いているということです。

ここで、犠牲的行為について触れている部分がありますので引用しておきます。

Your faith in sacrifice has given it great power in your sight;
except you do not realize you cannot see because of it.
あなたが犠牲行為を信頼していることで、それに大きな力を与えているように
自分の目には映っているとしても、あなたはかえってそのために本当に見ることが
できなくなっているとは悟っていない。
・・・
And so is sacrifice invariably a means for limitation, and thus for hate.
そのうえ犠牲を払っているのだからという思いで、必ず相手を制限しようとし、
延いては憎しみを抱くようになるのである。

人間関係において、お互いを制限したり、犠牲になるといったことは、
決して幸せになれない関係です。
犠牲になることを聖なることと勘違いしないことが必要ですね。

So be it

21章2 見ることにたいする責任

The Responsibility for Sight

奇跡のコースで教えていることは、難しいことではありません。
読め進むのは少し難しいですけれど、多くのことを求められているわけではありません。
日常で、私たちが見ている見方、考え方を変えていくように求められているだけです。

そのために必要なことは、ただひとつだけ。

Say only this, but mean it with no reservations, for here the power of salvation lies:
I am responsible for what I see.
これだけを、ただ疑 念を全く抱かずにとなえるがいい、
そうすればここに救いの力が見いだせる自分が何を見るか、それは自分の責任。

自分が何を見るのか、それを選んでいるのは自分である、ということです。
愛を見るのか、怖れを見るのか。平安か、攻撃か。起きてもいないことを推量し、
自分でこうであるに違いないと決め、自分で苦しんでいる。
これが私たちのしていることです。
何を見るのか、どう考えるのか、どんな感情を味わうのか、選択することができるのです。
不安や心配、いろんな思考や感情は勝手にやってきて、自分を支配しているように思えます。
でも、そうではありません。立ち止まってよく見てみましょう。
本当にそれを味わう必要があるのかと。

Acknowledge but that you have been mistaken,
and all effects of your mistakes will disappear.
自分が間違っていたと認めさえすれば、
間違いから起きた 結果などすべて消えてなくなるであろう。

本当にささないことです。でも、これを日常に取り入れることができれば、
あなたの心に平安の波がやってきます。

You must perceive that what is strong enough to make a world can let it go,
and can accept correction if it is willing to see that it was wrong.
世界を作りあげられるほど強いものなら、その世界を手放すこともできるし、
間違っていたことを素直にみとめるつもりになれば、
その訂正を受け入れることもできると知覚する必要がある。

The world you see is but the idle witness that you were right.
あなたは目に見える世界で自分の正しさを証明しようとするが、
それは根拠のない証明にすぎない。
・・・
The holy instant is not an instant of creation, but of recognition.
聖なる一瞬とは、創造ではなくて再認するための瞬間である。

So be it