21章1 忘れられた歌

The Forgotten Song

ここは、私たちには目の前にある現実が、ありのままに見えていないという話から
始まります。目が見えない人が、頭の中で想像するように、私たちは現実を捉えていると。
開いている扉も、閉じていると想像してしまうのです。

You can be shown which doors are open, and you can see where safety lies;
and which way leads to darkness, which to light.
どの扉が開いているか見せてもらえば、どこが安全なのか分るし、
どの道が暗闇につながり、どの道が光りにつながるのかも分る。

Judgment will always give you false directions,
but vision shows you where to go.
判断力は必ずと言っていいほど間違った指示をしてしまうが、
洞察力ならどこに行くべきかちゃんと示してくれる。

聖霊の洞察力で世界を見ることができれば、どこへ行くのかはっきりと見えると
教えています。選択を迫られたとき『こっちだ!』とクリアにわかったという経験を
したことがありませんか。それが洞察力です。考えて決めるのではありません。
わかっている、という感覚で決めることができるのです。
聖霊とつながっていると、その経験が益々多くなります。

目が見えないながらもやっと様子がわかるようになったこの世界は、
自分の選べるのはこれだけだから、自分のためにとっておこうとします。
しかも、それだけだということを憎みながら、一生懸命順応しようと生きています。

And everything they think is in it serves to remind them
that they are incomplete and bitterly deprived.
そしてその世界にあると思っているもの一つひとつに、自分たちはいかに不完全で、
恵まれていないかを思い起こさせられるのである。


たまにやってくる洞察は、遠い昔に聞いた歌のようなものです。
The notes are nothing.
そのメロディーの音符などなんでもない。

Yet you have kept them with you, not for themselves,
but as a soft reminder of what would make you weep if you remembered
how dear it was to you.
だがそれを覚えていたというのは、メロディーそのもののためではなくて、
自分にとってどんなに大切なものだったか思い出すと、涙ぐまずにはいられない何かを、
それがそっと思い出させるからだ。

私たちは歌を忘れてしまっていますが、完全になくしたわけではありません。
自分の中にある洞察力を取り戻すのが奇跡のコースです。

So be it

21章  理性と知覚 序章 

Reason and Perception  Introduction

Projection makes perception.
投影することが知覚作用を生ずるのである。
・・・
It is the witness to your state of mind, the outside picture of an inward condition.
その世界はあなたの心の状態を証明しており、内面の有様が外に描き出されている。
As a man think, so does he perceive.
人は心の思いのままに知覚するのである。

自分の考えていること、思っていること、感情が、外側に見えているものを作っています。
つまり、『攻撃される』という思いがあれば、攻撃を外側にみることになります。
それは、相手の意志とか思惑とか、もっと言えば真実とも無関係に、ある言動や状況に、
自分で『攻撃されている』というラベルを貼るのです。

様々なラベルを貼り、自分で自分を苦しめます。
これが、日常で私たちがしていることです。

外側に起きてくることを変えたかったら、自分の内側にある思いを変えればいいと
教えています。実際は起きているのではなく、自分がそう見ているだけなのですから、
思いを変えればいいのです。自分の現実をよく見てみましょう。

Everything looked upon with vision is healed and holy.
あらゆるものを洞察力でみれば、すべて癒されているし、神聖である。

本当のあるがままの姿をみれば、すべてが愛に満ちた存在です。
私たちに見えていないだけなのです。

So be it

20章8 洞察力でみた罪なき状態

The Vision of Sinlessness

私たちが虜になっているこの世界を、どうしたら聖霊の洞察力で見ることが
できるのでしょうか。それには、人を裁かないこと、人の中に罪を見ないこと、
そして、心から望むことです。聖霊は必ず応えてくれます。

Vision is freely given to those who ask to see.
洞察力による心像は、見せてほしいとたのむ者に自由に与えられるのである。
・・・
There is no problem, no event or situation,
no perplexity that vision will not solve.
どのような問題にせよ、どんな出来事や状況にせよ、
どれほど困ったことにせよ、洞察力で解決できないことは何一つない。

All is redeemed when looked upon with vision.
洞察力で見てみれば、すべては救われている。
・・・
Vision is the means by which the Holy Spirit translates your nightmares
into happy dreams; your wild hallucinations that show you
all the fearful outcomes of imagined sin into the calm
and reassuring sights with which he would replace them.
洞察力は、聖霊があなたの悪夢を楽しい夢に変える手段であり、
聖霊はそれを使って、あなたのでたらめな幻覚が見せる、
想像した罪の恐ろしい結末を、
すべて穏やかで安心できそうな光景に取り替えてくれる。
自我の目、自我の思考を通してみる世界ではなく、
洞察を通してみたとき、悩みは悩みでなくなるのです。

So be it

20章7 手段と目的の一貫性

The Consistency of Means and End

奇跡のコースを学んでいくと、不安になったり、この世で生きていることの
意義を見失うようなことが起きてきます。
それは、幸せとは何をいうのか、という定義が大きく変わっていくからです。
永遠の変わらない幸せ、喜び。それは意識の変容、奇跡によって訪れます。
自我の私が、どんなに探しても得られないものです。

意識が変わり、外側にあるものの見方、人間関係も変わります。
もしかしたら、仕事を変える人や、住む場所も変わって行くかもしれません。
そういう変化の中で、これでいいのかという不安、
自分は何を求めているのだろうという不安に包まれます。


To the extent you still experience it,
you are refusing to leave the means to him who changed the purpose.
あなたがまだある程度、不安を感じているとすれば、
それと同じぐらい、目的を変えてくれた聖霊に手段をまかせたくないとして、
拒否していることになる。

私たちの生きる手段は身体です。そして、私たちは身体だという想念を
徹底して手放しなさいと言っているのです。
Your question should not be, "How can I see my brother without the body?"
「どうすれば自分のきょうだいをからだなしに見られるだろうか」と、質問するべきではない。
Ask only, "Do I really wish to see him sinless?
ただ「自分は本当に、その人に罪はないと見ることを望んでいるだろうか」と聞くだけでいい。
"And as you ask, forget not that his sinlessness is your escape from fear.
Salvation is the Holy Spirit's goal.
そしてそれを聞くときには、その人が罪のない状態にあるということは、
つまり恐れから逃れられるのだ、ということを忘れないでほしい。
・・・
The means is vision.
救いこそ聖霊の目標。
For what the seeing look upon is sinless.
そのための手段が洞察力である。
No one who loves can judge, and what he sees is free of condemnation.
愛する者は、だれひとり裁きを下せないし、
目に入るものには非難する理由など見あたらない。

目覚めるには、聖霊の洞察力で人を見ることです。
そうなるためには、人の中に罪を見ないように、と教えています。
評価や判断なしに人を見れば、本当の罪のない存在が見えてくるということです。

So be it

20章6 聖霊の宮

The Temple of the Holy Spirit

奇跡のコースでは、私たちが見ている世界は実在の世界ではないと教えています。
この世は夢であるとか幻想であるとも言われます。

それは、世界を歪んだ知覚で見ることで起きています。
これが正しい、これが正義、これが普通、これが常識、これが愛・・・と
自分が間違って受け入れてしまった枠を通して世界を見ています。
いまある間違った思い込みを訂正することが求められています。

間違った思い込みのひとつに、自分は身体であるということがあります。
私たちは普通、私というときにこの身体をさしています。
しかし、身体はただの乗り物です。しかも、この乗り物の中にいるわけではありません。
私たちの実在は意識であり、エネルギーです。
こうした様々な思い違いを訂正していくのが、この奇跡のコースの学びなのです。

ここでは、聖霊の宮がテーマです。
宮というと身体をイメージするのですが、聖霊の宮はもちろん身体ではありません。

The Holy Spirit's temple is not a body, but a relationship.
聖霊の宮とは、からだではなくて、人と人との関係を意味する。

The body is the ego's idol;
the belief in sin made flesh and then projected outward.
からだというものは自我の偶像であり、
罪を信ずる心が肉体として具現し、外にむけて投影されたものだ。

This produces what seems to be a wall of flesh around the mind,
keeping it prisoner in a tiny spot of space and time, beholden unto death,
and given but an instant in which to sigh and grieve and die in honor of its master.
これが心のまわりに肉体の壁のように見えるものを生みだし、
それは小さな空間と時間の一点に囚人として留められ、死に恩義をうけて、
その支配者を敬い、ただの一瞬、ため息をつき悲しむ時を与えられては死んで行く。
・・・
Here it is given him to choose to spend this instant paying tribute to the body,
or let himself be given freedom from it.
ここで、その一瞬をからだに謝意を表すために費やすか、
からだから開放してもらうために過ごすか自分で選べる。

身体への偶像崇拝ではなく、愛を選びなさいと教えています。

So be it

20章3  適応するという罪

Sin as an Adjustment

You make the world and then adjust to it, and it to you.
あなたはこの世界を 作っておいて、それに適応し、それを自分に適応させようとする。

Do you like what you have made?
あなたには自分の作ったものが気に入っているのだろうか?
・・・a world of murder and attack, through which you thread your
timid way through constant dangers, alone and frightened, hoping at most
that death will wait a little longer before it overtakes you and you disappear.
・・・殺し合いと攻撃の世 界、絶え間なく続く危険のなかを、びくびくしながら
なんとか通り抜けようとし、一人ぽっちで恐怖におびえ、願っていることはといえば、
せいぜい、死がおとずれて自分が消え去る時期をもうしばらく待って欲しい、
ということぐらいだという、そんな世界がいいのだろうか。
・・・
The world you see is but a judgment on yourself.
あなたの見ている世界は、あなた自身にたいする判決のようなものにすぎない。

It is not there at all.
そんな世界は全く存在しないのである。
一方で、自分を神聖な存在として、外側にも神聖なものしか見ないならば、
そこには美しい世界があると言います。
他者を許し、自分を許したなら、誰も責める人を外側に見ることはないのです。
人生の意義や自分とは何か、そして人間関係について、エゴに答えを求めることをしても、
エゴは何一つわかっているわけではありません。

The world you look on is the answer that it gave you, and you have given it
power to adjust the world to make its answer true.
あなたの見ている世界は、そんな判断力を失ったものが与えた答えそのものだし、
あなたがそんなものに、その答えを本当にするために、
世界を適応させる力まで与えてしまった。

自分の現状を見ればわかるはずです。本当の幸せはどこにあるのか。
私たちは何も知らないで生きているのです。
エゴに人生の先導をさせてはいけないとここでも話しています。

In your brother is the light of God's eternal promise of your immortality.
あなたのきょうだいのうちにこそ、あなたは不滅である、
という神の永遠の約束を示す光りがある。

See him as sinless, and there can be no fear in you.
その人に罪はないと見るがいい、そうすればあなたには何も恐れることはないであろう。

So be it

20章4 箱舟に入る

Entering the Ark

この世界では、自分のものを人に与えるということは、自分は失うという法則で
成り立っているように見えます。しかし、宇宙の法則はそうではありません。
与えることは得ることです。

He gives no power to sin, and therefore it has none; nor to its results as this
world sees them,--sickness and death and misery and pain.
聖霊は罪に少しも力を与えたりしないので、罪には何の力もないし、
この世が罪のもたらす結果だとみなす病気や死、それにみじめさや苦痛などにも
力を与えるようなことはしない。

力を与えないとは、その存在を認めないということです。
そんなものはないと見ることです。
相手の中に罪を見ない、罪の結果として何かが起きることもない、として見るのです。
人に自由を認めれば、自分も自由でいられるのです。

In him is Heaven.
天国は確かにその人のうちにある。

See sin in him instead, and Heaven is lost to you.
その人のなかに天国のかわりに罪を見ると、あなたは天国を見失ってしまう。

But see him as he is, and what is yours shines from him to you.
しかしその人をあるがままに見れば、あなたに属するものが輝き出ているのがわかる。
・・・
It is of them who learned of freedom that you should ask what freedom is.
自由を自分のものにしていった人たちにこそ、自由とは何なのかと、尋ねるべきだ。

Ask not the sparrow how the eagle soars,
for those with little wings have not accepted for themselves
the power to share with you.
タカはどうやって空高く舞い上がるのだろか、とスズメに聞かないほうがいい、
なぜならそんな小さな羽根を持ったものは、
あなたと分かち合える力を自分自身のためにも受け入れてはいないからである。

エゴ(スズメ)に聞いても答えられないのです。
完全なる調和の世界、神の世界を知らないのですから。
私たちは人を通して、自分も他者も無垢であることを認めます。
それは私たちの役目でもあるのです。
全体はひとかけらの部分がなくても完全ではありません。
すべての人が平等に大切な存在なのです。

Once you accept his plan as the one function that you would fulfill,
there will be nothing else the Holy Spirit will not arrange for you without your effort.
いったんあなたが、神の計画を自分の果たしたいと望む唯一の役目として受け入れたら、
それから先のことは一つ残らず、あなたが努力しなくても、聖霊が手配してくれる。

このテキストの最初に教えられていました。私たちはひとりで行くのではないと。
私たちが目覚める道を行くと決めた時から、聖霊は側にいて導いてくれています。
それを信頼することです。答えが欲しかったら、聖霊に求めてください。
私たちが聖霊と共に生きると決めれば、現実に喜びがやってきます。
これは、何か宗教に入るとか、組織に入るとか、そういうことではありません。
ただ、自分の意志で、自分の心の中で決めればいいことなのです。

So be it