21章2 見ることにたいする責任

The Responsibility for Sight

奇跡のコースで教えていることは、難しいことではありません。
読め進むのは少し難しいですけれど、多くのことを求められているわけではありません。
日常で、私たちが見ている見方、考え方を変えていくように求められているだけです。

そのために必要なことは、ただひとつだけ。

Say only this, but mean it with no reservations, for here the power of salvation lies:
I am responsible for what I see.
これだけを、ただ疑 念を全く抱かずにとなえるがいい、
そうすればここに救いの力が見いだせる自分が何を見るか、それは自分の責任。

自分が何を見るのか、それを選んでいるのは自分である、ということです。
愛を見るのか、怖れを見るのか。平安か、攻撃か。起きてもいないことを推量し、
自分でこうであるに違いないと決め、自分で苦しんでいる。
これが私たちのしていることです。
何を見るのか、どう考えるのか、どんな感情を味わうのか、選択することができるのです。
不安や心配、いろんな思考や感情は勝手にやってきて、自分を支配しているように思えます。
でも、そうではありません。立ち止まってよく見てみましょう。
本当にそれを味わう必要があるのかと。

Acknowledge but that you have been mistaken,
and all effects of your mistakes will disappear.
自分が間違っていたと認めさえすれば、
間違いから起きた 結果などすべて消えてなくなるであろう。

本当にささないことです。でも、これを日常に取り入れることができれば、
あなたの心に平安の波がやってきます。

You must perceive that what is strong enough to make a world can let it go,
and can accept correction if it is willing to see that it was wrong.
世界を作りあげられるほど強いものなら、その世界を手放すこともできるし、
間違っていたことを素直にみとめるつもりになれば、
その訂正を受け入れることもできると知覚する必要がある。

The world you see is but the idle witness that you were right.
あなたは目に見える世界で自分の正しさを証明しようとするが、
それは根拠のない証明にすぎない。
・・・
The holy instant is not an instant of creation, but of recognition.
聖なる一瞬とは、創造ではなくて再認するための瞬間である。

So be it