20章7 手段と目的の一貫性

The Consistency of Means and End

奇跡のコースを学んでいくと、不安になったり、この世で生きていることの
意義を見失うようなことが起きてきます。
それは、幸せとは何をいうのか、という定義が大きく変わっていくからです。
永遠の変わらない幸せ、喜び。それは意識の変容、奇跡によって訪れます。
自我の私が、どんなに探しても得られないものです。

意識が変わり、外側にあるものの見方、人間関係も変わります。
もしかしたら、仕事を変える人や、住む場所も変わって行くかもしれません。
そういう変化の中で、これでいいのかという不安、
自分は何を求めているのだろうという不安に包まれます。


To the extent you still experience it,
you are refusing to leave the means to him who changed the purpose.
あなたがまだある程度、不安を感じているとすれば、
それと同じぐらい、目的を変えてくれた聖霊に手段をまかせたくないとして、
拒否していることになる。

私たちの生きる手段は身体です。そして、私たちは身体だという想念を
徹底して手放しなさいと言っているのです。
Your question should not be, "How can I see my brother without the body?"
「どうすれば自分のきょうだいをからだなしに見られるだろうか」と、質問するべきではない。
Ask only, "Do I really wish to see him sinless?
ただ「自分は本当に、その人に罪はないと見ることを望んでいるだろうか」と聞くだけでいい。
"And as you ask, forget not that his sinlessness is your escape from fear.
Salvation is the Holy Spirit's goal.
そしてそれを聞くときには、その人が罪のない状態にあるということは、
つまり恐れから逃れられるのだ、ということを忘れないでほしい。
・・・
The means is vision.
救いこそ聖霊の目標。
For what the seeing look upon is sinless.
そのための手段が洞察力である。
No one who loves can judge, and what he sees is free of condemnation.
愛する者は、だれひとり裁きを下せないし、
目に入るものには非難する理由など見あたらない。

目覚めるには、聖霊の洞察力で人を見ることです。
そうなるためには、人の中に罪を見ないように、と教えています。
評価や判断なしに人を見れば、本当の罪のない存在が見えてくるということです。

So be it