18章7何もする必要はない

I Need Do Nothing

ここはとても重要な節です。できれば全文を読んでください。

私たちは身体ではない、意識存在である。一貫して教えられてるテーマです。
身体を自分と思い、身体を保護したり身体の快感のために工夫することは、
罪に魅力を感じていると言われています。

たとえば、身体をいたわって疲れないようにするとか、
健康のために食生活に気を使うとか、
今流行りの身体の筋肉を格好よく見せようとするとか、
顔にせっせと美容クリームを塗るとか。
私たちは身体を自分だと思っているので、
こうしたことを少しもおかしなことだと思いません。

しかし、これらは実在から見ると奇妙なことなのです。
最も取り組むべき、実在の自分とつながることをしないで、
ありもしない身体をせっせと大事にしているのですから。

There is one thing that you have never done; you have not utterly forgotten
the body.
あなたがかってやったためしのないことが一つあるとすれば、
それは身体のことをすっかり忘れてしまうということ。

At no single instant does the body exist at all.
ただの一瞬も、身体は全く存在しないのである。

It is always remembered or anticipated, but never experienced just now.
それをいつも思い出したり予想したりはするが、決してちょうど今実感することはない。
興味深いですね、過去や未来の自分を身体としてイメージすることはあっても、
今ここにいるとき、実は自分を身体と認識していることはほとんどないのです。

It is impossible to accept the holy instant without reservation unless, just for
an instant, you are willing to see no past or future.
ただの一瞬、過去も未来も見ないでいる気持ちにならないかぎり、
聖なる一瞬をためらわずに受け入れることは不可能である。

身体を忘れる、身体を自分とは思わないでいられるようにする、ということを
目指した修行系の覚醒の道もあります。それは、いつかは成功するでしょう、
しかし、それでは時間がかかりすぎるとキリストは話しています。
なぜならその考えの根底には、いまではない、いつか悟ることを目標にしているからです。

悟ったときにわかる「自分は何もする必要はない」という究極の解放感。

"I need do nothing" is a statement of allegiance, a truly undivided loyalty.
「自分は何もする必要はない」というのは、忠誠を誓う声明のようなものであり、
本当に二心のない忠誠心を意味する。

Believe it for just one instant, and you will accomplish more than is given to
a century of contemplation, or of struggle against temptation.
それをただの一瞬信じさえすれば、一世紀にもおよぶ瞑想や誘惑との苦闘よりも、
もっと多くのことを成し遂げることができるのである。

To do anything involves the body.
何かをするためには身体を必要とする。

And if you recognize you need do nothing, you have withdrawn
the body's value from your mind.
だからもし、何もする必要はないと気づくなら、自分の心のなかに身体を
重要視する気持ちがなくなったということである。

Who needs do nothing has no need for time.
何もする必要のない者は時間に用はない。

To do nothing is to rest, and make a place within you where the activity of the body ceases to demand attention.
何もしないとは休息することであり、自分のなかに、からだの活動が注意を要求しなくなる場をもつこと。

Into this place the Holy Spirit comes, and there abides.
この場に聖霊が入り、そこに留まるのである。

身体を使った外側の活動に時間を割くのではなく、ただ何もしない休息の時間を
もちなさいとと言われています。瞑想を深めていくと、外側の活動が意味をなさないと
いうことに気づくでしょう。あなたが、休んでいると聖霊とともにいる自分に戻れます。
そうして、中心に聖霊がいることをわかりながら、再び、活動を始めるのです。聖霊とともに。

悟りへの道を歩き始めると、何もしない時間を経験するようになっている気がします。
私もずっとそうでした。外側には何もないとわかってしまうと、それまでの生き方では
前に進めなくなり、立ち止まるのです。その間に、何か調整が行われているのかもしれません。

So be it