15章10 再生の時 その2 

The Time of Rebirth
クリスマスシーズンにキリストに何を贈れるばよいのかという話から、
後半は犠牲についてテーマが移っていきます。

私には犠牲をささげられても受け取れないし、それは神についても言えること、それにあなたが自分自身に犠牲を求めるたびに、私に犠牲になるように頼んでいるようなものだ。

あなたの思考体系にとっては犠牲は絶対必要なので、犠牲を要さない救いなど何の意味もない。犠牲と愛とをひどく混同していて、犠牲を求めない愛など考えられなくなっている。だがあなたがよくよく見てみなければならないことがここにある、犠牲をはらうことは攻撃であって愛ではない。
私たちは、犠牲を、なぜか愛だと思ってしまいます。愛どころか、それは攻撃であるとキリストは教えています。犠牲になっているという思いは、いつかは恨み、憎しみに変わっていくのですから、それは攻撃といえるのでしょう。もし、愛から同じ行為をしたときは、それを犠牲になったとは言わないでしょう。自分がしたくてした、と本人もわかっているのですから。

人生には犠牲がつきものだという言い方をすることがあります。誰かの、あるいは組織の、会社の、仲間の、犠牲になっているという考え方。犠牲を払うことで、私たちは何を得ているのでしょうか?

ひとつは、犠牲になっていることで私はできてない、価値がない、といった思いを感じないですむということ。そして、その行動や結果、評価を自分以外のもののせいにできること。もうひとつ、 犠牲になることで代償も得られるのではないか、と期待があること(実際には犠牲に見合う代償を得ることはないのですが)。犠牲になることにもメリットがあると、無意識に私たちは選んでいるのです。

あなたは自分以外のみんなから犠牲を要求されていると思っている、ところが犠牲を要求するのはあなただけ、それもただ自分自身から要求しているのだが、そんなこととはゆめにも思っていない。

何か自分にとって不都合なことが起きた時、その出来事をまるで自分が犠牲者であるかのように語ることがあります。そうすると、少し自分が安心できるのかもしれません。しかし、実際にはすべて自分がしていることです。人生で起きてくることは、自分の責任であり、誰かが犠牲を強いているのではないのです。自分が何を選択しているのか、よく見ることが必要です。喜んでできないことは不必要な犠牲的行為なんだと、今の私は思います。