14章3罪責感をなくする決意 その2

The Decision for Guiltlessness

一般に、神の助けを得たければ、自分が望むことに向かってそれ相応の努力をしなければならない、という考え方があります。

そこで問われるのは、その「自分が望むこと」の中身です。もし、それが神、ONENESSの意志にそうものであれば、私たちはがむしゃらに頑張るとか、無理を強いられることはありません。喜びながら進むことができるのです。

ここ(14章3)では、小さな自分の望みに固執しないこと。神の計画を受け入れて生きることが平安な道であると教えています。

できるかぎり自分で決めて生きることが自立することであり、正しいと思っている人にとっては、違和感のある教えかもしれません。過去の私もそうでした。

しかし、今、私はこの人生で望むのは「目覚める」ことなので、導かれるままに生きていこうと考えるようになりました。小さな自分がわかること、見えていることはたかがしれている、聖霊はきっともっと大きな視点から、私をサポートしてくれるに違いないと。

見えない未来をつかみ取ろうと、前のめりになって生きるのではなく、差し出されるものを受け取ろうという姿勢になっています。すべては完全なタイミングでやってくると信じています。

自分にとって何らかの価値があるもので、意志の力で手に入れられないものは何一つない。

ところが自分の意志というものを理解していないので、聖霊がそっと代わりに理解して望みのものを与えてくれるわけだ、それもそのために努力したり、無理をしたりすることもないばかりか、自分が何を望み、必要とするのか、それを一人で決めるという、とんでもない重荷を背負う必要もないのである。

一人で自分のために手に入れられるものなどたかが知れているし、あらゆるものを与えてくれる聖霊が、そのすべてを簡単に差し伸べてくれるというのに、自分で手に入れたわずかなもので満足するつもりなのだろうか。

かわりに、聖霊の答えを受けいれてほしい、あなたには神が意図なさるすべてのものを授かる価値がある、と聖霊には分かっているのだから。

聖霊が本当に自由に喜んで与えてくれる神の賜物を目の前にして、逃げ出そうとしないことだ。

それぞれの心の贖罪のために、神が立ててくださった計画を静かに受け入れ、自己流のやり方を放棄した心には平安がある。

聖霊となら、神があなたのために意図なさることこそまさに自分の意志でもある、とあなたにも分かってくるに違いない。

「自分の代りに決めてほしい」と、あなたが聖霊に言いさえすればそれですむこと。

そのみんなにとって良いことだけをもたらせるということを決める責任を、全部自分で背負うつもりだとでもいうのか。それが何か(あなたに)わかるだろうか。