13章10罪責感からの解放 その1

Release from Guilt

ある兄弟と何らかのつながりをもち、自分の罪責感を相手になすりつけるとか共有するとか、相手の罪責感を知覚しようとしたりすると、自分の気がとがめてくるのは確かである。
それに満足感も平安も見出せないだろう、二人のつながりは本物ではないのだから。

自分の中にある罪の意識を外に投影して、他人を責めても、結局はうしろめたい気持ちになってしまう。これが、私たちが普段していることです。

奇跡のコースではそのつながりは本物ではないと言っています。

そんな関係に自責の念を覚えるようになるというのも、自分にその因があるからだ。だが苦しんでいるにもかかわらず、自分の内面を見つめてその思いを放つつもりなどない。

最も気遣うのは、罪責感の源は自分の外側にあり、自分で制御できないと見て取ろうとすることにある。

自分が怒ったり、責めたりする理由を、他人のせいにすることはよくあります。他人のしたことが原因なので、自分にはそれが起きてくるのを防ぐことはできないと言います。でも、それは間違いです。自分の内面がただ表れているに過ぎないのです。外にあることは内にもあること。一体なのですから。

あなたが自分には罪があるとはいえ、その源は過去にあると主張するなら、自分の内面を見つめていないということ。過去はあなたの中にはないのである。

どんな関係にせよそれをもちだして自分を過去に拘束せずに、それぞれの関わりを日々新たにすることだ。

過去に起きたことを持ち出して、人を責めたり、今の自分がこうなっているのは過去に原因があると言ったりもします。しかし、それもまた錯覚です。今のあなたしかいません。だとしたら、変わることができるのは今であり、幸せになることができるのも今です。過去の自分という幻に、過去の痛みや、経験に自分を縛りつけないことです。もし、囚われるような過去の経験があるなら、聖霊に渡してしまいましょう。ただ、「どうぞ、持って行ってください」と心からお願いすればいいのです。

たとえそれが誰のことにせよ、何をしたにせよ、その人が何らかのかたちで自責の念を抱いて当然だとあなたが信じるかぎり、あなたは自分の内面をみつめようとはしないだろうが、そこを見ればいつでも贖罪を見出せるはずである。

贖罪の目的は錯覚をぬぐい去ること、錯覚を本物だと認めたうえで許すということではないのである。

この世をまったく新しい見方でみること。それが奇跡のコースの学びであり、贖罪です。それがわかれば、人生は変わって行きます。誰にも罪はない。あなたが、責めたいと思っている人にも、何の罪もないのです。それを受け入れれば、生きていることはとても軽やかになります。