13章8知覚から知識へ

From Perception to Knowledge  

癒しとはすべて過去から解放されるということである。
だから聖霊が唯一の癒し手となる。

過去はないと奇跡のコースでも教えていますが、それは聖霊の知識に属することなので、私たちには真に理解することはできないとも語っています。聖霊には、「どこ」という概念もなく、あらゆるところにあらゆるものを、永遠にもっていることも知っています。実在においての知識というのはそういうものです。

知識はすべてあなたのものに違いない、すべての知識はあなたのうちにあるのだから。

知覚は、その最も高尚なものでも決して完全だとはいえない。

完全な知覚には知識と共通の要素がたくさんあるので、知識へ転移することは可能となる。

だが最後の歩みは神によって取られるに相違ない、なぜならあなたがあがなわれるための最後の歩みは、未来のことのように思えるとはいえ、あなたが創造されたとき神によって為し遂げられたことであるから。

覚醒の最期の一歩は神から手を差し伸べられるということは、コースの中で、以前にも語られていました。世にあるさまざまな教えの中でも、自分でそれを起こすことはできないとあります。

私たちは、自分で目覚めると決意し、学び始めることはできますが、覚醒を自分で起こすことはできないのです。それは、眠るときに、眠りが向こうからやってくるように、覚醒もまた、ある時、突然、向こうからやってくるのです。

あなたは神の子に奇跡を差し伸べるたびに、全創造のある側面を真に知覚しているにすぎない。

もっとも一面一面が、まさに全体そのものなのだが、あなたにこれが分かってくるのは、一つひとつの面は同じ光り、つまり一つの光りのなかで知覚されるので同じものだと見るようになるときだろう。

あなたと私は違う、というのは私たちの錯覚。ひとつの光が私たちの真の姿であり、光源から浮かび上がった影をみて、違うと言っているだけなのです。

過去はないものとして人を見ると、その一人ひとりがあなたに癒された見方や癒しをもたらす見方で暗闇をみるようにさせて、この世界を見えるようにし、あなたを世の終わりへと近付けてくれる。

だれもが皆等しいのであって、みんな美しく、その神聖さは同等なものである。

キリストの賜物をすべての者にあらゆる所で差し伸べるがいい、聖霊を通じて神の子に差し伸べられた奇跡はあなたを実在に調和させるのであるから。

人を癒すこと。それがキリストの賜り物を差し出すということです。人に愛を与えること。愛からすべての行いを始めること。そうすれば、道は平坦になり、目覚めへの道を自ずと歩いていることになるのです。

そして突然時間は終わり、我々はみんな永久不滅の父なる神のうちに一つに結ばれる。

あなたが兄弟たちに奇跡を差し伸べるたびに、自分の外側に見た聖なる光りはあなたに戻ってくる。

So be it.