13章3罪があがなわれる恐れ

The Fear of Redemption

13章2では、自分の罪の意識を隠したいために、それを外に投影し、自分を責める者を作り出している。それが私たちがしていることであり、罪をどうしても隠しておきたいと考えているけれど、それは実はとるに足らぬことだとキリストは話していました。光の中でそれを見れば、なんでもないことだとわかると。

そして、大切なのは自分で心の底に何があるのかをよく見ることだと話しています。

この奇跡の道の教えは、あなたの幸せと平安を目標にする、とはっきり述べている。けれどもあなたはその教えに恐れを抱いている。

ここでは、私たちは罪があがなわれて、自分が無罪であり、愛に満ちた存在であると知ることを恐れている、ということがテーマになっています。

あなたが本当に恐怖を抱いているのは、罪をあがなわれることである。
自我の暗い土台の下にあるのは何かといえば、それは神の思い出であり、これこそあなたが本当に恐れているものだ。

あなたが抱いている攻撃にたいする恐れは、愛にたいする恐れと比べれば問題にならない。

自我の土台よりさらに深く、それが強くなる可能性よりもっと強いのが、強烈で燃えるようなあなたの神に対する愛であり、あなたへの神の愛であるから。

これこそあなたが本当に隠したがっていることである。

正直なところ、あなたには「憎い」と言うより「愛している」と言う方が難しいのではないだろうか。

愛を弱さと結びつけたり、憎しみを強さと結びつけて考えたりして、あなたにとっては自分のもつ本当の力も実質的には弱みのように思えたりもする。

もしあなたが愛の呼びかけを耳にしたなら、喜んでそれに応ずるのを抑えられないし、自分で作ったと思っている世界は全部たちまち消滅してしまうだろうから。

私たちが神への愛に気づき、この幻想の世界が消え去ることを恐れていると話しています。確かに、あると信じていることが、実はただの幻想であるとわかるのは、恐ろしい気もします。神の前では私たちが作り出した世界は無価値になるとどこかで知っているからです。

しかし、すでに目覚めた人に会うと、確かに喜びの中に生きているのがわかります。幻想だとわかるのは、この世界の闇の部分なのです。愛は確かにあるのですから。

一つとなって生きることより、自分個人として迎える死のほうがもっと貴重に思えるというのも、与えられたことは自分で作ったことほど大事ではないからなのだ。

苦しみを聖霊に見えないように隠したりせず、喜んで打ち明けるがいい。
永遠に正常な心の状態にある聖霊の前にあなたの心の傷をみなさらけ出し、自分を癒してもらうことだ。

あなたが捜しさえすれば見つけられる、愛はあなたのうちにあり、それがあなたを正気へ導いてくれるのであるから。

So be it.