13章1 罪がないこと、そして傷つかないこと

Guiltlessness and Invulnerability

平安と罪責感とは正反対であり、
心に安らぎがあるときにのみ神を思い出せる

愛と罪責感を同時に抱くことはできないから、一方を受け入れるともう一方を否定することになる。

どうして自分に罪がないといえるだろうか? 私はいつも人を攻撃したり、批判もしている。どうしたら、罪がない自分になれるのだろうか?

時間のなかではあなたに罪がないとは言い難いが、永遠においては、罪はないといえる。
過去に「罪を犯した」とのことだが、過去というものはないのである。常にある状態に方向はない。時間は一つの方向に向かうように思えるが、あなたがその終点に達したなら、それはまるで後にした過去にそって広がった長いじゅうたんが巻上がるようにくるくるっと丸くなり、消え失せるだろう。

おもしろい表現ですよね。過去は巻き上がって消えるとは。時間は幻想であり、あるのはこの瞬間だけ。あなたが過去にどんな罪を犯そうと、あなたがいまこの瞬間に罪があるという自分の思いを手放すと決めれば、罪はなく平安があるのです。

私は気が短くて、すぐに怒ります。自分が攻撃されたと思って反撃することもしばしばです。自分に非がある、十分ではないと思うから、反応してしまうのです。

昨日も母とバトルです。すぐにこれではだめだと反省し、聖霊に攻撃する心を持っていってくださいとお願いします。でも、今日もまた、ささいなことで怒っています。けれど、また、思います。怒った自分を責めるのはやめよう。罪の意識を手放そう、と。すると、母も同じように次の瞬間、怒ったことを忘れています。

自分に罪がない、ということは、今はわかならないのですが、罪がある、非があると思って反応してしまう自分には気づきます。それを自分で訂正し、聖霊にお願いして癒してもらう。そうすれば、少しずつでも実在の自分の姿に近づいているのではないかと思うのです。

聖霊は神の子にふさわしくないものをすでにことごとく取り消している、そうすることが神から与えられた使命だったのであるから。

だれもが皆、自分で作ってしまった牢獄から逃げだそうとしているのだし、そこから解放される道を与えられていないわけではないのだから。

神の子には今罪がないのだから、自らのもつ純粋さは永久に神の御心のなかで、もとのままのあざやかさで輝いている。

罪の想念をもつゆえに、ある人が他の人に罪の宣告をすることを信じるようになり、統一するかわりに分離を投影することになるのだから。

あなたに罪はないので傷つけられることはない。

自我は、あなたは有罪なのだから自分自身を攻撃するように、とあなたに教えるのであり、その言いなりになると罪責感は増すに違いないが、それは攻撃するとそれを感じてしまうからだ。

攻撃をすれば、ますます罪の意識は大きくなります。それは闇に囚われてしまうということ。自分が攻撃をしても、自分を責めない。そして、潔白であるのだから、誰にも攻撃されないし、傷つけられもしないと知ることが求められています。

あなたは完全に潔白な存在であるから、傷つけられることもない。

So be it.