12章5正気の教科課程
5. The Sane Curriculum
ただ愛だけが強い、なぜならそれは分割されていないのだから。
強い者は攻撃などしない、なぜなら彼らはそうする必要がないとわかっているから。
攻撃しようとするのは、自分を守ろうとするから。守ろうとするのは、相手より自分が弱いとみているから。誰もが平等であることを知っていたら、攻撃をする必要はないことも理解できるはずである、とコースでは教えています。
だからあなたが、自分は傷つけられることのない状態にあると再認識することは、正気を回復するのにひじょうに重要である。
自分が傷つけられると考えるので、傷つくことがあるのです。実在の私たちは完全な存在なので、傷つくことはありません。傷つくとしたら、それは自我(思考)です。
攻撃はどこにもなく、それは私たちの自我(思考)が勝手にあると思い込んでいるだけですが、その攻撃が仮にあったとしても、私たちは実際には傷つくことはありません。また、逆に、自分が誰かを攻撃できると考えるのも間違いなのです。
イエス・キリストは肉体を攻撃されましたが、復活をしてみせることで、それは無意味なのだということを証明しました。実在の私たちが攻撃によって滅びることはないのです。
愛だけが分離していないので、最強のものです。
このあと、ここでは、愛の意味を理解していないものを教師としないように、学ぶことに成功していないのに、自分で学習課程を設定しないように、という話が続きます。
自分で理解していないことを自分自身に教えようと試みないほうがいい、そのうえ自分のは明らかに失敗しているというのに、教科課程の目標を決めようとなどしないことだ。
真理として掲げられた、たくさんの教えが世の中にはあります。しかし、たとえば、人よりも豊かになるとか、人よりも有利になるといった考えがその底辺に見え隠れするとしたら、それは分離へと導くものだと私は思います。真理の誤った解釈によるものです。分離することが目標として掲げられているのなら、それは決して成功しないし、成功したように見えても憂鬱になるだけです。愛なのか、分離なのか、そこを見分けることが大切だと思います。
何を自分は求めているのか、その目標を見失わないことが求められています。その目標とは、この世でのうたかたの成功ではなく、神(ONENESS)に戻ること、目覚めることです。その学びに専念するようにと言われています。
正しく理解されれば、あなたの学ぶための潜在能力は、あなたを神へと導くことになるので、無限である。
その教科課程にはどこにも不明瞭なところはない、その目標は分割されていないし、そのための手段と目的は完全に一致しているのだから。
His learning is as unlimited as he is.
神の子の学ぶことは、本人がそうであるように無限である。
So be it.