12章3実在への投資

The Investment in Reality

かつて私は、あなたに自分の持物をみな売って貧しい人々に与え、それから私についてくるようにと頼んだことがある。この話で私が言いたかったのは、もしあなたがこの世界においてどのような投資もしていないとしたら、あなたは貧しい人々にどこに宝があるのか教えることができる、ということだ。

投資とは、常に救いと関係しています。この世にあるものに何かの救いを期待し、意識やお金や労力などをつぎ込むのは間違った投資であり、人々は貧しくなるとイエス・キリストは言います。宝、豊かさは外側にあるのではなく、自分の内側にあるからです。

しかし、その貧しい人々(真の豊かさを理解していない人々)から救いを求められたとき、それがどんなに嫌なものでも、応じるようにとここでは教えています。

重要なこととそうでないことを見分けるがいい、そしてもしあなたの兄弟たちが何か「outrageous とんでもないこと」を頼むなら、それはどうでもいいことなのだから頼まれたとおりにするがいい。

貧しい人々が何かを執拗に要求し、あなたがそれを拒み、一瞬でも怒りを覚えたとき、その要求が自分自身を救済するという信念をふたりで強化することになります。つまり、外側のもので救われるという観念を作り出してしまうということです。

実際には、外にあるものが人の心を救うことはないので、私たちは簡単にそれを手放すことが求められています。それがなんであれ、自分のために抱え込むことはないのです。

自分を守り、救うために、誰かを拒絶したり、攻撃することもする必要はないのです。
決してこのことを見失わないようにし、また一瞬たりとも、別の答えがあるなどと自分に絶対信じさせたりしないでほしい。

自我と一体感をもつとすれば、それは自分自身を攻撃し、自らを貧しくさせることである。だから、自分を自我だと思う者はだれもがみな、恵まれていないと感じたりする。

しかし世界はただそれを作った人の心の中にあるし、それと同時にその人の本当の救いもそこにある。

世界が自分自身の外にあると信じないことだ、ただそれがどこにあるのか気づくことで、その世界を制御できるようになるわけだから。

自分で本当に大切なものは何か、自分の心を救うものは何なのかをわかっていれば、とんでもない要求がやってくることはないのです。何を欲しがられても、自分にとっては失っても惜しくないものであり、本当に大切なものは、実在のものですから、与えれば増えて返ってくるのですから。

自分が攻撃されているように見て取れることは、すべて自分の心の中にあり、そこ以外にはないと認めるようになるなら、あなたはようやく攻撃の源を見つけたことになるし、そこで始まるものはそこで終わらなければならない。

So be it.