12章聖霊の教科課程1聖霊の審判

The Holy Spirit's Curriculum  
The Judgment of the Holy Spirit

ここではまず、人の行いの動機を分析するのは無意味なことであるという話から始まっています。

自我は複雑なパターンで考えるので、本当の動機など自分でもわかっていません。それを分析して、他人の動機をわかろうとしても無意味なのです。そこに何か答えのようなものを導き出したとしても、たぶん間違っているでしょう。

私たちがすべきことは、分析ではなく、真理をみることです。

自我を取り消すために非常に重要な一歩としては、恐れに気づき、それにごまかされずに面と向かうことが必要だとくりかえし強調しておいた。

他の者たちの愛に満る思いだけ受け入れ、それより他のものはどれもみな助けを求める哀訴だとみなすようにと教えることで、聖霊はあなたに恐れること自体が助けてほしいという訴えだと教えた。

これこそ恐れに気づくという本当の意味。

それが攻撃を愛への呼びかけだと知覚することを学ぶ究極的な価値である。

どんな攻撃であろうと、怒りの表現であろうと、すべては助けて欲しいという声にほかなりません。すべての人は許して欲しい、愛して欲しい、助けて欲しいと願っているのです。それが根底にあるものです。

小さな子供が母親に抱いて欲しくて、それができないと怒りをぶつけてくることがあります。私たちはみんな小さな子供です。攻撃だと思って反応してはいけない、それはただ助けを求めているだけなのだからと、ここでは話されています。そして、人を助けることは、自分が助けられることになるのです。

ただ真価を認めるということこそ、あなたの兄弟に対するふさわしい応じ方である。その兄弟の愛に満る思いと、助けをもとめる哀訴にたいして感謝の意を表すべきだといえる、もしそうした思いや訴えを正しく知覚するなら、それによってあなたは愛を自覚するようになれるのだから。

もし攻撃だけが恐れをうみだすもので、攻撃は助けをもとめる呼びかけ、たしかにそれだけのものだと見るなら、恐れは実在しないものだと分ってくるにちがいない。

恐れは、あなた自身が何かを失っているという痛切な思いを抱いているしるしといえる。

あなたに持てる感情はただ恐れと愛だけである。

かくして聖霊は恐れを愛に置き換え、間違いを真理へと変える。

So be it.