11章6贖罪への目覚め
Waking to Redemption
奇跡のコースでいう自我とはなんでしょう? 自我は思考です。
生まれてからずっと蓄積してきた思考パターンの集積のようなものだと、私は理解しています。ある意味、データであり、データとデータとつなぐ回路でもあります、そしてそこを走る電気信号でもあるかもしれません。
自我とはそういうものでできていると私は思います。ですから、これは修正が可能です。修正していくうちに、それは姿を消していきます。最期には、実在の自分だけがそこにあることがわかります。
見えるものを信じないということは不可能だが、同様に、信じないものを見るということも不可能である。知覚の対象となるものは体験に基づいてその印象が高まり、体験が信念となる。
私たちはある、と思ってみることでそれは体験となり、体験が積み重なって信念となります。本当はないものでも、そこにみるようになるのです。攻撃や怒りも、そこにあると信じれば、実際に体験することになるのです。
ここでいう復活とはキリストが自我に完全に打ち勝つことであり、それを攻撃ではなく超越することによってなしとげる。
そんな神(自分で作り出した神)の名において、自分自身を責め苦しめ、神の子の力は犠牲的行為と苦痛から生まれるものと信じている。
神は私たちが苦しむことなど望んではいませんし、実在の自分もそうです。しかし、この世界では苦しむことで自分が成長するとか、力をつけることができると信じています。不安や苦しみ、苦痛さえも錯覚なのです。
自分のうちなるキリストに解釈してもらうようにし、それに自分が見るものを、神の子にふさわしいとはいえない、心の狭い取るに足らない信念で制限しようとなどしないことだ。
復活は為し遂げられていることなので信じてほしい、それもあなたのうちに為し遂げられているのだから。
もう、すでの復活、自我を超越することは起きてしまっていることなのです。私たちはそれに気づけばいいのです。
自分を傷つけたり、卑下したり、恐怖を抱かせたりするものをことごとく置き去りにする自由を、あなたに押しつけることはできないが、神の恩寵を通して差し伸べることはできる。
神の子は自分自身をはりつけにしたことから贖われたのであり、あなたが、神から永遠の生命を与えられた者を死刑に引き渡すことなどできはしない。
So be it.