11章5自我の「力学」その1

The "Dynamics" of the Ego その1

10章あたりから、とても密度が濃い話になってきています。どこを抜粋しようかと迷い、何度も読み返しているので、ついブログを書くのが遅くなっています。

私は何年も前からACIMを読んでいますが、まだ、人の中に攻撃をみることがあります。もう自動的にそうなっている自分がいるんですね。とくに肉親の場合は。そういうとき、このACIMを手に取って読むと、ああ、そうだった、と自戒します。

起きてくることにニュートラルな状況はないと、キリストはいいます。私たちがそれを知覚したとたんに、自我(思考)は、いいー悪い、好きー嫌い、楽しいー苦しい、といったふうに判断して受け取っているからです。ある意味、脳はそうするのが仕事ですからね。

でも、「よく見なさい、攻撃も恐れも錯覚だと気づきなさい。それは、あなたの力を奪う思考であり、癒されることから遠くなるのです」と、ここでも教えています。私たちの思考が自動的に行ってしまっていることを、もう一度洗い出す必要があるのです。

癒しとは知識に達する道において、邪魔になるものをすべて取り去るということでしかない。そして錯覚を払いのけるには、それを護ろうとなどしないで、真っ向から見つめる以外に方法があるだろうか。だから恐れることはない、あなたが見てみようとするのは恐れの源であり、恐れは実在的なものではないということが分かり始めているのだから。

ここでいっている「知識に達する道」とは「覚醒への道」ということです。自分の中にある、誤解したり、錯覚していることをひとつずつ取り去ることが、道に就くことになるのです。

私が前に述べたように、神に背いて意図するのは願望的思考であり、本当に意図することではない。・・・あなたが味わうという本当の葛藤とは、自我の根拠のない願望と、自分が分かち合っている神の意志とのあいだでのこと。

よく、願望実現の本に書いてありますね、まず意図しなさいと。しかし、本当の意図とは、神の意図に沿っているものだけだということです。

実際には、導かれている、護られていることがわかれば、自分が意図するのは神の元 ONENESS に戻るということだけではないか、という気がしています。

自我はいつも分離のために攻撃する。こんなことをする力を持っていると信じるので他のことは何もしないでいる、自我が目標とする自立はたしかに他の何ごとでもないのだから。

日常で人間関係やうまく物事が運ばないとき、自分の心の中や言動をみると、攻撃がそこにあることに気づきます。攻撃されていると感じていることもあります。それらはすべて、錯覚です。誰も、あなたを攻撃する人はいません。すべてをそこから見ることが大切です。

ではもしあなたが、そんなことを受け入れるとは自分を卑下し、自分自身の力を奪うことになると悟りさえすれば、どうやって自我はその存在を続けることができるだろうか。

何につけ自分を神から分離させるように思わせるものは、ただの恐れにすぎないとあなたが気づくということが、自我にとっては脅威のもととなる。

ただ何が恐れなのか、それが分るようになることで、あなたは最終的にできることとできないことを区別したり、間違ったことと真実であることを区別したりできるようになる

恐れる気持ち、攻撃している自分、そういうことにひとつずつ気づくことで、自我と距離をおくことができてきます。

So be it.