9章8崇高さ対虚勢

Grandeur versus Grandiosity

ここでは、まず、自分の中にある 神の質である Grandeur( 偉大さ 壮大さ 深遠さ 崇高さ )をかすかでも気づけば、その度に自動的に自我を放棄すると言っています。

あなたの崇高さからはあなたは祝福できるだけだ、その崇高さはあなたが満ちたりていることを意味するのだから。

祝福を与えることでその崇高さを自分の心に抱きつづけ、また錯覚からも護って、自分自身を神の心のなかに留めることになる。

つまり、人に祝福を与えることは、自分自身を神の中に留めておけるということですね。

一方、虚勢を張るとはどういうことでしょう。虚勢を張るのは、自分を小さいもの、器量がないものとしてみているから起きることです。

虚勢の本質は競争心、なぜなら、それはいつも攻撃を必然的に伴うから。

自分を卑下してきたことに耐えないで、それにともなっていた苦痛から逃れようと決心するなら、自我は意地悪さへ変わる(シフトする)。

そうして自我はあなたに攻撃するという錯覚を「解決法」として提案する。

自分を小さなものと見ないこと。それは錯覚なのだから。そうして、崇高さは自分で考えたものではなく、私たちの真理、本質なので否定されることはありません。

崇高であるこ、偉大であることと、虚勢、偉ぶっていることとの違いはどこにあるのでしょう。それは、あなたに接する人々の中にみることができます。その人たちの中に喜びをみることができるなら、あなたは自分が崇高である質を生きているのです。崇高であれば、祝福を与えることができ、虚勢は攻撃をするだけです。

神の崇高さは完全でなもの。あなたが欠けていれば、神は不完全だということになります。

あなたは神の心の中で、かけがえのないもの。その中であなたの部分を満たせるものは他の誰もいないし、そこを欠けている間ずっと、永遠にあなたのものである、そこはただあなたの帰りを待つだけだ。

So be it.