9章1実在の受容

The Acceptance of Reality

神の意志を恐れるということは、今までに人の心が作り上げた最も奇妙な信念のひとつである。

日本にも天罰という言葉があるように、聖書に限らず、私たちは神が人間を罰するという思想をもっています。奇跡のコースでは、それは人間が作りだした最も奇妙な信念のひとつだといいます。

神に対する恐れと思えるものは、実際には自分自身の実在を恐れているということ。

自我は、私たちの実在に気づいて欲しくありません。実在の意識に戻れば、自我は消えてしまうからです。実在の私たちは、神の意識に含まれています。ですから、私たちが神です。自我は、神を恐ろしいと教えることで、私たちを実在=神から遠ざけようとしているのです。

もし、何が自分の実在わかっていないなら、どうしてそれは恐ろしいものだとそんなに確信できるのだろうか。

私たちは神とは何なのか知りません。ただ、なんとなく恐ろしいもの、私たちを裁くものだと思い込んでいる、そのことにに気づきなさいと言われています。私たちはずっと、神を恐れるように刷り込まれているのです。

もし、ある心が自らの意志は神のとは違うと信じるなら、そのとき、神はいないとするかまたは神の意志は恐ろしいもととするか、そのどちらかに決めるしかない。最初のは無神論者、後のは殉教者にあてはまり、殉教者は神が犠牲を要求すると信じている。・・・そのどちらに決めたにせよ恐怖におびえることになる、無神論者は、自分は一人ぽっちだと信じ、殉教者は神が自分を責め苦しめていると信じるのであるから。

確かに、神を求めていながら神を恐れている人がいます。殉教者の過去世ばかりという人もいます。そして、無神論者は現代社会の多数派でしょう。しかし、その両方とも、本来の自分が望んでいる姿ではないのです。自分が孤独であるはずもなく、神が苦しむことを望むはずもありません。大いなる誤解、錯覚です。

究極的にはすべての者がきっと神の意志を思い出す、究極的にはきっと誰もがみんな自分自身を再び認めるのだから。

不安になり、ゆううつになり、恐れを抱くなら、それは私たちが実在的でないものに自分をしようとして生きているから。ただ実在を受け入れようとするだけで、私たちはONENESS への道を歩き始めることになるのです。実際にあるのは、神、ONENESS の意志だけなのですから。

自分自身を越えたところに真理を捜そうとしないことだ、真理はあなたのうちにのみあるのだから。

So be it.