8章8身体は手段か目的か

The Body as Means or End

奇跡のコースでは、自我を自分とみなさずに、距離をおくように、そうして最後には消え去るようにしようと教えます。自我がいったいどんなことをしているのかを度々話しているのですが、ここでは身体をどう利用しているのか、ということがテーマです。

自我は、私たちが身体であること、そして病気になることを主張します。つまり、私たちが傷つきやすい存在であると、自我は説得するのです。身体は病気なるから、身体のためのルールが必要だと自我はいいます。

しかし、実は自我は何も知らないでそう仕向けるのです。コースでは自我の間違いを検証することはしない、それよりも真理の役目は、真実の情報を集めることにあると言っています。

聖霊はあなたの兄弟たちの心を動かすために、自分の身体を使うようにと教える、そうすれば聖霊はあなたを通して自らの教訓を教えることができる。こうすることが兄弟たちを癒し、従ってあなたを癒すことにもなる。すべて聖霊がみてふさわしいと見なす役目に従って使われたなら、病気になるはずがない。・・・攻撃しようと自分で決めたことをその身体に反映させたりしないでほしい。・・・健康は、愛のないまま身体を使おうと試みるすべてを放棄した結果である。

健康であるためは、まず、自分を身体であると思い込むのをやめる。自分を攻撃するのをやめる。人を攻撃するために、自分の身体を攻撃するのをやめる。愛のない行いをやめる。自分を癒し、人を癒そうとする。・・・そうすれば、自然に健康でいられると、話しています。

私はここを読んで、あるワークショップのことを思い出しました。それは家族の座、ファミリー・コンステレーションというものです。バート・ヘリンガーさんというドイツ人の元宣教師の方が作り出された療法です。

彼はアフリカで宣教師をしていたときに、現地の方が病気を治す方法を知って、このワークを発案しました。それは、家族の人間関係と、家系の人間関係、先祖的なものを含みますがそういう観点から、現在、行き詰まっている問題をみていくものです。病気を治すことが目的ではありませんが、ボランティアで病院でワークショップを行うこともあります。

あるとき、癌患者さんと話して、ヘリンガーさんはこの人が母親を許していないことが、病気の大きな原因であると言いました。そうして「母親を許すと言えば、あなたは癒されます」とヘリンガーさんが説明したのですが、その人は決して許すと言わなかったそうです。

側で見ていた人が私に話してくれたのですが、それで命が助かるかもしれないのに、彼は頑として「許す」と言わなかったとショックを受けていました。母親に対して、どうしても許せないことがあったために、彼は母親への攻撃を、自分の身体への攻撃として表現したのです。自分の身体を使って、母を罰しているつもりなのでしょう。

客観的にみると、なんと愚かなことをと思うのですが、人はこういうことをしているのです。しかも、指摘されても直せないのです。母を許せないと、そう思ってしまったのには訳があるとは思います。しかし、それもすべては誤解です。よくよくみればわかることです。

自我に振り回されないで、愛のある行動とはどんなことか、それを考えてみることが、健康への道なんだと思います。