8章7意思疎通の手段としての身体

The Body as a Means of Communication

自分自身を身体と等しいと考えるなら、いつもゆううつな気持ちになってしまう。神の子供が自分のことをこんなふうに思うなら、自らを卑下しているし、自分の兄弟たちのことも見下げている。その人は兄弟たちのうちにのみ自分自身を見い出せるのだから、自分を救いから切り離してしまっている。

聖霊は身体を、ただ意思の疎通手段だと解釈する。

ここでは、身体をどのように見るのかという話をしています。私たちの実在は霊、スピリットですから、身体があるというのは、この世界と同様に錯覚です。しかしながら、錯覚を完全に癒し、実在の世界に戻るまでは、私たちは意志の疎通をするために身体を使います。心を一つに結びつけるための手段として、身体を使うなら、それは神の意志に合っています。

私たちのこの世界では、身体が自分であると思ったり、身体そのものに価値があると考えたり、身体を攻撃するといったことをします。誰かの身体を攻撃すれば、何かを得られると考える人もいます。戦争などもその例ですね。あるいは、身体(外見)だけで人を判断したりもします。それらは、間違った解釈です。そうした考えは自分を自分で卑下していることになると語られているのです。

身体は私たちの実在ではありませんが、身体は私たちが霊、スピリットに戻る手段として使えるのです。今、こうして情報を得ることも、身体がなければできないこと。兄弟たちに出会い、相手を通して学ぶことも身体がなくてはできないことです。身体は、身体自体を越えるために使われなければならないのです。つまり、目覚めるということにです。身体自身は何の目的ももっていません。心だけがそこに目的をもたせることができるのです。

学ぶということは、身体を越えて、心の力をその中で再び確立することへと導かなければならない。

健やかである とは、ただ目的が統一されているということにすぎない。もしも身体を心の目的のもとにおけば、心の目的は一つだから、身体は完全なものとなる。

So be it.