8章2拘束と自由の違い

The Difference between Imprisonment and Freedom

私たちがこの世で生きているときに、多少窮屈な思いをすることがあるとはいえ、自分が拘束されている、囚われている、と考えることはあまりないと思います。反対に自由であると信じています。住むところ、仕事、目標など、何かしらの制約があるとしても、それらを選ぶ自由は保証されていると。

しかし、奇跡のコースでは、そうはいいません。私たちはこの世で囚われているのだと。自由であるとはどういうことかを知らず、拘束された状態を間違って自由であると信じていると。

奇跡のコースでは、自由であるとは一切のネガティブな思いがない状態を言います。至福の中にあり、無限の知識を使って、創造をしている。その状態を自由であるといいます。

囚われている自分に気づくには、普段の自分の意識、感情に気づいている必要があります。それは自分から外に向けられたものだけでなく、心の中、無意識の中にあるものもひっぱり出して、自分を観察しなければなりません。それは決して気持ちのいいものではありません。これが私と思っていた、その自画像が崩れていきますからね。

かつて私は人の悪口を言うことも、誰かを憎んだこともないと、自負していました。自分は公明正大な人間だと信じていました。しかし、あるとき、街で素敵な女性を見ると、妬んでいる自分がいることに気づいたのです。あれって、思いました。私って、こんなことをしているのか、と。自分と人を比較する、批判する、裁く、こういう思いのひとつひとつが自分を囚われの身にしているのです。それは、生まれてから誰も教えてくれたことがないことでうす。心で思うことが自分を縛るなんて。前置きが長くなりました。

自我は、何を教えようとしているのかも知らない。あなたが何であるかわからないまま、あなたが何であるかを教えようとしている。自我は混乱の熟練者でしかない。自我は何も分かっていないのだ。

聖霊は、あなたを過去にとどめておくあらゆる事柄を、どのように無視するのか、あるいはどのように越えて見るのかを教える、そうして、あなたを自由の道に沿って着実に導く。

すでに述べたことだが、聖霊はあなたに苦痛と喜びの違いを教える。それはまた、聖霊が拘束と自由の違いをあなたに教えるのと同じことである。

自我である思考にとらわれていることが、囚われの身ということです。自分を幸せにしない思考パターンを手放すことが求められています。私たちは、過去におきた出来事に執着します。苦い思い出、悲しい思い出、辛い思い出・・・そういう話をするのが大好きです。囚われの身です。

どうしたら手放せて自由になれるのか。自我にはわかりません。忘れないようにするのが自我の仕事ですからね。自我を信じないで、聖霊に教えてもらいなさいと書かれていたのがここのテーマです。

あなたの意志は神(ONENESS)の意志であるとわかれば、神があなたなしに意図できないように、あなたはもはや神なしに意図できないだろう。これこそが自由であり喜びである。

So be it.