7章8信じ難き信念

The Unbelievable Belief

投影することがなければ、怒りはあり得ない。

拡張しなければ、愛もあり得ない。

聖霊にとっては、分かち合うための根本法則であり・・・自分が大切だと思うものを、自分の心に保っておくために、与えることになる。
自我にとっては喪失の法則ともいえる。

私たちはこの二つの法則を免れることはできません。
心は必ず、投影と拡張のいずれかを選んでいます。

自我の投影の仕方を十分に理解する必要がある、
そうしてはじめて投影と怒りの必然的なつながりを、
最終的には取り消すことができる。

最近は、私は怒ることが減りましたが、それでもあります。昨年、友人と歩いていて、行列ができている占いの店がありました。その人がみつけて「ほら、あなたの好きな占いよ、並んで受けたら」とアゴでその列を指して言ったのです。その時、友人が、私の興味について全く理解がないことに驚き、がっかりすると共に、怒りも感じていました。

内在する怒り、それを相手の行為に投影していたのです。まるで攻撃されたかのように感じ、相手が悪いと腹を立てていたのです。

もし投影がなければ、その人は私の興味について誤った解釈をしているというだけのこと。普段からスピリチュアルな話をしている間柄ではないので、当たり前のことです。

投影、怒り、争いはこうして、常につきまといます。しかし、そのつながりを理解することができれば、取り消すこともできると教えてくれているのです。

自我は・・・きわめて巧妙にその争いが減っているようにみせかける方法を工夫している・・・争いをあなたの心から他の心へと投影するが、それはそんな問題を取り除くことができた、とあなたを説得しようとする試みだ。

簡単にいえば、人のせいにしてしまうということだと思います。日々、起きてくる怒り、攻撃、争いは、みーんな他人のせいで、攻撃をしかけているのも他人の方だと自我が説得するのです。

怒っているのは自分ではなくて相手だと言っていれば、自分は争いから自由でいられると自我は教えます。自分は被害者で、困っているのだと。でも、それでは、いつも問題や悩みはそこにあり、あなたはいつまでも本当には幸せになれません。

この試みには大きな間違いが二つ含まれている。第一に、厳密に言えば争いを分かち合うことはできないので、それを投影することもできない。

第二の間違いは、自分が欲しくないものを誰かに与えれば、それを取り除けるという考え方。与えるとは、逆にその何かを自分で保つ方法だ。・・・だから、自分の投影することが戻ってきて自分を傷つけると恐れている。

これをやめるには、自我を信じることをやめればいいとキリストは語ります。そして、怒りなどの感情は間違いなのだから、聖霊に渡して、取り消してもらいなさいと。

自我が存在する責任は自分だけにあると受け入れる気になるなら、怒りや攻撃をみな捨て去ったことになる。

この奇跡の道の教えの全目的は、あなたに自我は信じ難いものであり、永久に信じ難いままになると教えること。・・・実在するものは無限であるから、あなたの完全な姿は限りないものである。

So be it.