7章6警戒心から心の平安へ

From Vigilance to Peace

あなたは神の子をひとつとして、ただ愛することができるけれど、それをばらばらに見ることもできる。しかし、何かを部分的にみて、その部分を全体にあてはまると考えないでおくのは不可能だ。だから、攻撃は決して別々にされるのではないし、それが全面的に放棄されなければならないわけでもある。

実在の世界では ONENESS の意識があたりまえのことです。ですから、部分的に攻撃するということはあり得ない。誰かを攻撃すれば、それは自分自身や自分の愛する人も攻撃することになるのです。したがって、攻撃は全面的に放棄するしかありません。

攻撃だけでなく、自分が考えたり、作り出すこともすべて全体に影響を与えているのです。

恐れによって生み出された自我は、恐れを生み出す。

聖霊はあなたに矛盾することを理解するようにと望んではいない、ただ矛盾することは無意味だから、理解できないと悟ることを望んでいる。

自我が考えることは、一見正論のようで矛盾に満ちています。自分の実在へ向かうことを忘れさせるために、刹那的な幸せを気まぐれに提示するだけです。自我が言っていることを聞いていては、いつまでも幸せになれません。それに気づけば、聖霊を選ぼうと思えるはずです。

心に平安があるなら、そこに警戒心の入り込む余地はない。

自我はあなたの心を自我のそのものの妄想的体系に引き込もうとする・・・もし、あなたが平安を望むのであれば、あなたは矛盾する考えを全部、これから先ずっと放棄しなければならない。・・・あなたに警戒心が必要なのは明白である。

悟るまでは、自分の心をいつも見張っていることが必要なんですね。批判や批難などの攻撃をしていないかとか。でも、そうしていると、少しずつでも平安のスペースが大きくなります。

聖霊は、あなたが悲しいのは神と共同創造主としての自分の役割を果たしていない、したがって自分自身の喜びを奪っているからだと、そっと気づかせてくれる。

So be it.