7章2神の国の法則

The Law of the Kingdom

自分の思いや考えを外に見ようとすることは、自分にとって実在となります。その法則は神の国、ONENESS においても同じです。しかし、その思いがどのようなものであるかで、起きてくることは全く違ってきます。

物質世界では、「自分の投影することを自分で信じる」ことに順応している。これは、自分が作り出していることに気づいていないので、あたかもそれが既存のこと、実在であるかのように信じることに自分を合わせているんですね。この世界ではお互いに投影し、そから学び、教え合い、それを信じています。

神の国では、教えることもなければ学ぶこともない、そこには信じることなどないのだから。あるのは確実なことだけだ。神と神の子たちには、実在するという確信をもって、自ら拡張するものこそ自分そのもであるとわかっている。・・・それは、順応させられることはなく、創造の法則そのものである。

聖霊は、神の法則を理解できない者のために、その訳者となってくれる。

神の国は完全に一貫しているということは、混乱している者たちには何を意味するのだろうか。混乱していると意味がつかめなくなるのは明白であり、従って学ぼうとする者にその真価を認められなくする。


少し横道にそれますが、神、神の国の真価を認めるのは確かに難しいことです。私は悟りとか目覚めるという概念を20年前には知っていました。それは、たとえばチベットの僧とか、インドの聖者に関係があっても、自分にとって価値があるとは思えませんでした。瞑想はしていても、ストレス解消のようなものでした。

目覚めることにどんな価値があるのか。それは、仏陀がそうであったように、ある意味の絶望、虚しさ、想像力、洞察がないとわからないかもしれません。世界はどう作られているのか、歴史はまだ繰り返されるのか、人生は何のためにあるのか、幸せとは何か・・・。

物質世界を追求しているだけで、本当の幸せや永遠の喜びを得ることはない、というのは今の私には明白です。

一方で、物質世界に魅力や幸せや、すばらしい可能性があると思っている人が多数派であるのは事実です。そういう人にとっては、目覚めることの価値を知るのは難しいことです。まだまだチャレンジしてみたい欲求がたくさんあるということですからね。それはそれで一生懸命生きて、経験して、得たり失ったりしてみるといいと思います。

そうして、ふとしたはずみに、今までの自分が知らなかった世界、本当の自分、真理、無限の愛、至福、完全なる知識を垣間みるような体験をすると、あっと気づくのかもしれません。
人によっては一生懸命に生きていても、人生に絶望するような経験をすることもあるでしょう。しかし、そこで目覚める道に気づけば、その絶望は祝福に変わります。

若くして、意識して悟りを探求する人もあれば、半ば強制的に運命が導くような人もあるわけで、道に入っていくきっかけは本当にさまざまです。