6章5聖霊の教え その2

The Lessons of the Holy Spirit その2

分離していると信じる者はみな、仕返しされたり見捨てられたりするのではないかという根本的な恐れをもっている。攻撃や拒絶を信じるので、そんなことを知覚したり教えたり学んだりする。

攻撃されることも、拒絶されることも私たちが最も恐れることですが、それは、ONENESSの実在の世界ではあり得ないことなんですね。
キリストはここでおもしろい言い方をしています。
 正気を失ったものは変なことを習うものだ。
ほんとに変なことをしているなぁとキリストが首を傾げている様子が浮かぶようです。だって、みんなひとつなんですから。ひとつの存在ですから。拒絶のしようがないのですね、本当は。

さて、ここでもう一度、
聖霊の教え「得るためには、すべてをみんなに与えること」 
私たちにはなじみのない考え方です。まったく逆のように思えます。
どういうことでしょうか?

たとえば、
外国語を学ぶためのとてもいい方法を考案した人がいるとします。
それは何も表現しなかったら、その方法はないも同然です。
それを誰かに教える(表現する)とそれは与えることになります。
教えることで、自分もそこから一段と学ぶことができます。
それは得ることになります。
そうして、与えたことで、ないも同然だった方法が実在する、
持っていることが明白になるわけです。
「得るためには、与えること」
「教えることは、学ぶこと」なんですね。

ACIIMの教えにも同じことが言えます。

すこし、話が横道にそれて申し訳ないのですが、フランスの経済学者で思想家のジャック・アタリさんという方がいます。2009年頃だったと思いますが、NHKで彼のインタビュー番組がありました。いつか著作を読んでみようと思いつつ、未だに実現していませんが、そのときのお話でとても印象に残ったのが、未来の社会のあり方として、利他主義を挙げていたことです。人が幸せになることで、自分も幸せに思うこと。仏教の教えにも通じるものがあります。今、日本は利他を思う心で溢れていますね。これまでも、日本の伝統の中にはずっとあったこの利他という思想が、危機に際して吹き出したように感じます。これからは企業も人の幸せを第一に考えるところでなければ、生き残れないでしょう。人よりも自分、自分だけが得をすればいいというのは、資本主義の間違った発展の仕方だったと思います。そのどん欲さの現れがリーマンショックだったのですから。

「得るためには、すべてをみんなに与えること」というのは、自我には信じられない概念です。でも、どうでしょう、発明したアイデアなどをみんなに与えるとしたら・・・。パソコンのOSで有名なLinuxは、1991年にフィンランドヘルシンキ大学の大学院生によって開発され、フリーで公開されました。Skypeも、世界中の人がフリーで楽しんでいます。現にそういう人や企業はあるんですね。持っているアイデアや思想、能力、そういうものは、与えれば、得られるという法則があるのです。

それでも私たちは、それは本当だろうかと心の中で葛藤します。
独占した方が価値が高くなるのではないか、自分のことは自分で守らなければ等々。
その葛藤はどうしたら消えて、本当のことだけを信じることができるのでしょうか。それはまた明日に。