6章2投影にかわるもの その2
The Alternative to Projection
投影に代えて、聖霊はあなたが完全だと知覚することから始める。この完全さは分ち合われるということも知っているので、聖霊はそれを他者のうちにあるのも認め、こうすることでその完全さを両者のなかで強める。
私たちはこの世で育っていく過程で、さまざまな考え方、価値観などを学びます。それは両親や先生、友人、あるいは読んだ本や、最近では、ネットの中などを通して。それはほとんど無意識に取り入れてきますが、ときには、こういう考え方はよくないとか、こう考える方が前向きかなと自分で選択して選ぶこともあります。
ACIMでは、そうした思考体系(考え方の基準、土台)となるところを、もう一度見直すことをしています。
6章2では、他人に投影(注)するのをやめて、人も自分も完全であるとみよう。そういうふうに考えようということです。お互いに完全であると見れば、平等であるとわかることもできると。
私たちは、幼いころから自分がいかに不完全で、できていないことばかりを指摘されて育ってきているように思います。ですが、どうでしょう、あなたも私も完全なんだからね、という考えからスタートしていたら・・・。今はそれを受け入れることを求められているのです。
こうすることで、贖罪を自動的に招くことになる。
贖罪とは、自分の間違いを訂正して、元に戻る、目覚めるということです。人と自分を分けないで、両者とも完全で平等であるということを認めれば、そうなれば、自動的に贖罪は起きてくる、悟れるということですね。
聖霊はこうした完全さを今あなたが知覚できるようにしてくれる。
その心が神のもとを去ったためしなどないのなら、それを戻すにはただその心をあるがままに知覚すればすむこと。・・・分離は決して起こってはいないと再認することである。
自我はじつにたやすく、その戻す必要があるという考えを難しそうに思わせることができる、・・・
しかし、本当は戻すという考え方すらもいらない。私たちは、本来のすがたは完全なのであるから。ただ、自我を、私たちを欺こうとする自我を黙らせればよいこと。私たちの中に葛藤があるなら、それは聖霊に委ねればいい。なんの葛藤もないのは聖霊だけなのだから。
聖霊は自らをそれぞれの心に中に認めることによって拡張し、かくしてその心は一つだと知覚する。このように知覚すること、そこには矛盾するものは何もない、聖霊が知覚するものはすべて同じであるから。
(注)投影 とは、心理学で使われる言葉ですが、自分の中にあるものを他人の中に見ることを言います。よく、人は自分の鏡だという言い方をしますが、まさにそういうことですね。「あの人のここが気に入らないわ」などど、人の中に見えるものは、実は自分の中にあるものだということです。
ユング派の心理学などでは、そうした投影する部分を、自分の中にもあると認めて生きることで、人間として成長していくと見なしています。
一方でACIMは、投影しているのはあなたのエゴである、本来の自分は完全なので、相手の中にも完全さだけを見るように、と教えているのです。考えの土台になっているところ、思考体系が全く違うのを理解していただけるでしょうか。