6章2投影にかわるもの その1

The Alternative to Projection

あなたは何か投影すると、その何かと自分との関係を否認しており、従って、それが自分のものだとは信じない。あなたは、自分が投影する相手と自分は違うと判断することで、まさしく自分自身を除外していることになる。

日常で、あの人と私は違う、と思うことはよくあります。自分だったらしないな、とか、そうは言わないとか、あれはひどいよ、こんなことをするなんて気がしれない、とか。

それは自分と対象を切り離して批判しているのですが、そのことは、自分を除外していることに気づきなさいと言われているのです。それは分離し、攻撃することになるのです。

しかも、それを続けることは、自分を傷つけることになる。
投影は自分の心が分裂していると信じるのを強めることになり、その唯一の目的は分離状態を続けることだ

自我はこうすることで、あなたは兄弟たちより「優れている」ように思わせるという理由で、それを正当化し、かくしてあなたが兄弟と同等であることをなお一層わかりにくくする。

批判は、相手より自分の方が正しいとか、よくわかっているとか、広い見方ができるとか、センスがいいとか、なにかしら上位にあると考えているからできることです。そして、批判は、自分の投影として行われるものですから、その言葉は自分への批判でもあるのです。こんなことを日常的にしていて、心が平安であったり、幸せになれるはずもありません。

では、どのようにすれば、これをやめられるのでしょうか。

聖霊はあなたが完全だと知覚することから始める。

自分自身を完全だと見て、人の中にも完全さを見なさい。そうすれば、怒りの代わりに愛を両方に呼び起こす。

自分を完全だと見ることができるでしょうか? 
人の中の完全さをどうしたらわかるのでしょう? 
すごく難しいことのように思えます。
完全であることなど、どう逆立ちしてもできないような気がします。
そうです、完全であることを求められているわけではないのです。
すでに完全なのです。それを見なさい、ということなのです。
では、どうすれば、見ることができるか。

私は、ついこの間までは、こういうふうに自分に言っていました。
「私は今はこの人の完全さが見えていないだけだ」と。
しかし、これでは見えていない自分をどこかで責めているようです。

近頃はこう言います。
「私は私の中の完全さを見ることができない、こんな私を許します」
「私はあるがままで完全です」と。
そうすると、心の中のくもりが取れるような気がするのです。
あるがままの自分に寛ぐという体験ができます。

そうすると、周りの誰も彼もがあるがままで完全なんだと思えます。
人も自分も、以前と変わっているわけではないのですが、前だったら引っかかっていた言葉も笑ってスルーしている自分がいます。

「私はあるがままで完全です」「あなたもあるがままで完全です」

So be it.