6章1キリストのはりつけとその教え その2

The Message of Crucifixion その2

昨日の続きです。
キリストのはりつけの意味は、これまで長い間、誤解されてきました。恐ろしい暴行がなされ、迫害されたと。しかし、キリストはそうではないと説明します。

十二使途たちのほとんども、はりつけの意味を誤解していた。
使途たちの愛が完全ではなかったので、自分たちの恐れを投影し、
自分たちが恐れていたからこそ神からの仕返しの手段として「神の御怒り」が降りかかるなどと述べたりした。それは、彼らはキリストを助けられなかったことに良心の呵責を覚え、憤りを覚えていたから。

以前紹介した「神の使者」の中でも、このことは語られていました。
十二使途は、誰ひとり、キリストの話すことの本当の意味を理解できる者はいず、まして目覚めている者はいませんでした。その彼らが話したことを伝えてまとめたのが『新約聖書』ですから、誤解されている部分がたくさんあってもしかたがないことです。

(ネタバレで申し訳ないのですが、「神の使者」の著者の前世は十二使途のひとりだったのです。ですから、紀元前の当時、キリストの教えを弟子たちが理解していなかった話も出て来ます。)

この後、ACIMの中で、『新約聖書』の意味を逆さまに捉えている例を挙げています。ユダについても語っています。キリストはユダの裏切りを信じていなかったし、ユダは私の兄弟であり、神の子である。その兄弟に罪の宣告などするはずもないと。

だれひとり、罪の罰を受けるものはいないし、神の子たちは罪人ではない。

このあたりのキリストの言葉はとても力強く感じます。
神の子たちの力は常に現存する、なぜなら神の子たちは創造主として創造されたからである。お互いに与える影響力は限りないものであり、それを自分たちが共有する救いのために使わなければいけない。各自、どのような形で拒絶する事もみな無意味だと教えるようにならなければいけない。

So be it.