6章1キリストのはりつけとその教え その1

The Message of Crucifixion

キリストのはりつけは、長い歴史の中でずっとその意味を誤解され続けています。ていねいに説明してありますが、以下簡単にまとめました。

キリストのはりつけとは何だったのか。
 まず、それは刑罰ではなかった。

 それは極端な例であるが、
 どのように学習を助けるかということに価値がある。

分離した世界で生きる私たちは自分の思いを外側に投影する。
 まるで自分自身がはりつけになったように反応し、怒る。
 怒りが暴行に走らせ、暴行を働けば恐れを抱かずにはいられない。

 キリストがはりつけにされたことの本当の意味は、
 数人の神の子が、別の一人に強烈な暴行を加えたように見える、
 ということにある。
 しかし、実際には暴行を加えることができるのは身体に対して
 だけである。

 だが、滅ぼすことができるとしたら、それは実在のものではない。
 実在でないものを滅ぼしたといって怒ることは正当化できない。

(身体を滅ぼしても、キリストの本質であるスピリットを消滅させることはできない。傷つけることも、指一本触れることもできない。キリスト自身はなんの影響も受けていないのだから、怒る根拠がないことになる。キリストは身体が自分とは全く思っていないのだから。)

これにより、迫害を暴行とみなし、怒りで応ずることは、
 自分は滅ぼされることがあると考えていることになる。
 それは正気で自分自身を見ているとは言えない。

キリストは自分自身は迫害を受けていないと解釈をしている、
 その解釈を分かち合って欲しいと言っている。

「自分の教えるとおりに、自分が学ぶことになる」
もし、まるで自分が迫害されているように反応するなら、
迫害を教えていることになる。

あなた自身完全に守られていると教えることだ、それこそあなたの中の真実だし、それは攻められるはずがないと悟ることである。

キリストのはりつけが教えてくれることは完全に明らか(clear)だ
   愛だけを教えるがよい、あなたは愛そのものであるから。
    Teach only love, for that is what you are.

So be it.