6章1キリストのはりつけとその教え その1
The Message of Crucifixion
キリストのはりつけは、長い歴史の中でずっとその意味を誤解され続けています。ていねいに説明してありますが、以下簡単にまとめました。
▼キリストのはりつけとは何だったのか。
まず、それは刑罰ではなかった。
それは極端な例であるが、
どのように学習を助けるかということに価値がある。
▼分離した世界で生きる私たちは自分の思いを外側に投影する。
まるで自分自身がはりつけになったように反応し、怒る。
怒りが暴行に走らせ、暴行を働けば恐れを抱かずにはいられない。
キリストがはりつけにされたことの本当の意味は、
数人の神の子が、別の一人に強烈な暴行を加えたように見える、
ということにある。
しかし、実際には暴行を加えることができるのは身体に対して
だけである。
だが、滅ぼすことができるとしたら、それは実在のものではない。
実在でないものを滅ぼしたといって怒ることは正当化できない。
(身体を滅ぼしても、キリストの本質であるスピリットを消滅させることはできない。傷つけることも、指一本触れることもできない。キリスト自身はなんの影響も受けていないのだから、怒る根拠がないことになる。キリストは身体が自分とは全く思っていないのだから。)
▼これにより、迫害を暴行とみなし、怒りで応ずることは、
自分は滅ぼされることがあると考えていることになる。
それは正気で自分自身を見ているとは言えない。
▼キリストは自分自身は迫害を受けていないと解釈をしている、
その解釈を分かち合って欲しいと言っている。
「自分の教えるとおりに、自分が学ぶことになる」
もし、まるで自分が迫害されているように反応するなら、
迫害を教えていることになる。
あなた自身完全に守られていると教えることだ、それこそあなたの中の真実だし、それは攻められるはずがないと悟ることである。
キリストのはりつけが教えてくれることは完全に明らか(clear)だ
愛だけを教えるがよい、あなたは愛そのものであるから。
Teach only love, for that is what you are.
So be it.