5章6時間と永遠 その1

Time and Eternity その1

罪を犯しているという思いが時間の保存論者である。

自我を継続することの替わりに永遠を選べば、それと同時に
罪責感を喜びに、邪険さを愛に、苦痛を平安に換えることになる。

神の国をいつも思い出し、その神の国の重要な部分であるあなたが、
自分を見失うはずがないということを思い出してほしい。

自我は裁きをくだしてそれを言い渡し、聖霊がその判決を破棄するようなものだが、それはこの世で、上級裁判所には下級裁判所の判決を破棄する権限があるのとほぼ同じだといえる。・・・自我は何を知覚しようがそれを正しく解釈していることは、何ひとつない。

このあと、自我の解釈がいかに人を惑わせるものかという実例をキリストは挙げています。それはいわゆる『聖書』の解釈をめぐるもので、恐れを抱くように解釈されている『聖書』の言葉から取り上げられています。

私は『聖書』を読んでいませんが、ネットで垣間みる『聖書』の言葉の解釈は確かにまるで脅されているような気持ちになるものもあります。
聖霊の言葉によって書き直された言葉は、なるほど〜と思うものばかりです。

たとえば、一般にもよく知られている『聖書』の有名な言葉で
『Vengeance is mine, sayeth the Lord』ローマ人への手紙12:19.
(復讐するは我にあり、と主はいわれる)は、
一般には、神のみが正しい判断、正しい裁きができる方なので、人は裁いたり報復をしてはならない、それは神に任せなさいと解されています。

しかし、ACIMでは、復讐という想念は神の一部であるあなたにはふさわしくないので、それは聖霊に渡しなさい、そうすれば心の中のそんな想念は消し去ってくれますと解釈し直しています。

前の方の章でも語られていると思いますが、神の概念に、そもそも天罰や復讐などという言葉はないのです。すべての存在をただ愛しているだけなのですから。ですから、『聖書』の中では、自我が神をまるで人間であるかのように考えているという例になるでしょう。キリストは自我は自分の都合に合わせて『聖書』を引用すると話しています。

私は、この間違った想念を聖霊に渡して、取り消してもらうというところが大事だと思います。自分だけでは手放せないものを取り去ってもらう。それができるのは、聖霊のサポートがあるからなんです。取り去る方法は、エクササイズとして簡単なものを紹介していますので見てください。もちろん、ただ、聖霊に渡しますと祈るだけでも十分だと思います。