5章5自我は罪責感を利用する その2

The Ego's Use of Guilt その2

罪責感のない心は苦しむはずがない。正気なので、そうした心はたしかに癒されているのだし、身体も癒される。

自我は自らを罰すれば、神からの刑罰を軽減できると信じている。

人は病気なります。それは癒されていない心が作り出すものであり、自らを責め、罰しようとする自我のしわざです。自我は神が罰するという考えをもっていますが、本当の神には罰するという概念はありません。どんなに私たちが神から離れてしまっても、ただ愛で迎えてくれるだけです。

聖霊か自我か、どちらかを選択できるだけである。

自我は私たちが作ったので、自分でなくせる、一方聖霊は神が創造されたので、自分でなくすことはできない、とキリストは話します。どちらでも選ぶことができますが、自我以外の選択肢があると知っただけでも、すごいことだと思います。

混乱した思いにはどれもみな、初めに罪責感が伴い、そんな思いは罪責感で維持されている。

「混乱した思い」は私にはとてもなじみのあるものです。なぜこうなったのか、何が起きているのか、どう考えればいいのか、どうしてわかってもらえないのか、などなど。その根底にあるのが、罪責感。自分の間違いに対して、自分を責める気持ちです。

その最初の間違いを正すことでしか、私たちはこの罪責感から解放されることは望めません。キリストの言葉で、贖罪を受け入れるということです。それは、元の自分に戻ることを受け入れることです。

分離したままでいるという決心をもち続けることが、罪責感にさいなまれ続ける唯一の理由として考えられる。

贖罪を受け入れた瞬間、完全な創造へと戻ることにもなる。心の混乱した思いを放棄したあと、思いが正しく整えられていることはきわめて明白となるのである。

So be it.