5章5自我は罪責感を利用する その1

The Ego's Use of Guilt その1

私たちが元々いた神の国、ONENESS に戻るには、聖霊の導く声を頼りにするといいとキリストは話しています。

一方で、キリストは、私たちの中にある自我(エゴ)の声に振り回されないようにと諭します。自我は私たちにこの物質世界にいて欲しいのです、ここしか自我はいる場所がないからです。自我はあらゆる手段で私たちをコントロールしようとします。

自我には目標がある。・・・自我の目標は恐れ、なぜなら怖がるものたちだけが利己的になるからだ

もし、あなたが自我と一体感をもっているなら、自分は罪を犯したとみなしているに違いない。

自我の声を聞くということは、神を攻撃するのは可能だと信じ、自分が神の一部分をむりやり引き離したという意味になる。外部から仕返しされるかもしれないという恐れがそれに続く、というのも罪責感があまりにもひどくなり、その罪責感を投影せざる得なくなるからである。

あなたが自分の心に受け入れるものは何でも自分にとっては実在するものとなる。受け入れることがそれを本物にする。

神の国を離れたことで、私たちは心の奥に自分を責める気持ちをもっています。
 「なんてことをしてしまったのだろうか、
  愛されているのに裏切ってしまったんだ」

そうして、その罪が本物であるかのように思い、外側に自分を責めるものを見いだします。この世界で責められたり、怒られたり、非難されていると感じたりするのは、根っこは自分自身の罪責感を外側に投影しているからなのです。

逆にいえば、外側に自分を責めるものを見なくなれば、つまり、責められるという経験をしなくなれば、それは癒された心に近づいているということでしょう。

あなたは神と共に考えるようにならなければいけない。共に考えるとは神と同じように考えるということ。こうすることは罪責感ではなくて喜びを生じる。

あなたの中に何か考えが浮かんだとき、あるいは行動を起こすとき、そこに喜びがないとしたら、それはもしかしたら、神と同じように考えるということから離れているのかもしれません。ちょっと立ち止まってよく考えてみましょう。喜びからしようとしているのか、恐れからしようしとしているのかを。

私は自分の仕事といえるようなことから離れて、もう何年にもなります。いい加減仕事を始めるべきではないのか、と考えることがよくあります。でも、その度に、自分の内側から、・・・ねばならない、・・・すべきという観念で動きだしてはならないとアドバイスがきます。そうだった、本当に動く時は、喜びから動きだせるはずだ、と気づきます。

自我はいろんなふうに話しかけて来ます。仕事があって一人前、困るのは自分だ、先に行けばもっと困る、もっと足りなくなる、社会人として恥ずかしい、責任ある大人じゃない、等々。一見、まともな意見のように思えます。

そういう自我の声に耳をかさず、恐れからではなく、喜びとともに歩き出せることが大事なんだと思います。

こんな生活を今の私がどう感じているか、聞きたいですか?
起きてくることにまかせようとするせいか、ちょっと自分が宙に浮いているような不安を感じます。同時に、この人生を使って未知の冒険をしている小さなワクワク感もあります。
これって喜びですよね。

○自分の心で受け入れたものが現実となる。
○外側に自分を責めるものを見るなら、
 自我に支配されてるということ。
○喜びと共に選び、喜びと共に行く。