3章6裁きと権威問題

Judgment and the Authority Problem

自分自身や兄弟たちを裁こうとする気持ちを全然もたずに接するとき、思わずこみ上げてくる素晴らしい開放感や、心に深く感じる平安とはどんなものなのか、あなたには少しもわかっていない。

私たちは裁くこと、つまり、判断したり、批判したり、評価することがよいこと、しかもそれが早くできれば頭の切れる人というふうに思っています。社会全体が、判断と評価の連続で作り上げられているようなものです。

しかし、キリストはそれをしないでいたら、すばらしい開放感と平安があるというのです。
あなたは、どちらがいいですか? 裁かない生き方と、批判して生きることと。私は、自分も人も裁かない生き方にしようと思います。

絶え間なく裁こうとして気を張りつめていると、ほとんどそれに耐えられないほどになる。・・・しかしもし自分が実在の創始者になりたいと思うなら、裁きをくだすことにしがみついて譲らないだろう。・・・いつかは自分が裁きを受けることになると信じる。

私たちは、自分が生きている世界のボスでありたいために裁くことをして、その審判はやがて自分にも及ぶと恐れているということ。
この誰が世界のボスか=権威問題が『諸悪の根源』であるとキリストは言っています。

権威問題があるとすれば、それは必ずあなたが自分自身の創始者であると信じて自分の妄想をほかの人たちに投影するからだ。そうしておいて、あなたはその場の状況を、他の人たちはあなたが創始者であることに同意しないと、文字通り論争を吹っかけているのだとみて取る。

権威問題の投影が、私たちの日常の争いであったり、国と国の戦争の元であったりするのでしょう。誰が真のボスなのか、それに気づけば争うこともなくなりそうです。

自分を自分で創造したか、あるいは創造者不明の存在なのか、そう考えていると自分は本当に存在するのだろうかとさえ疑ってしまうかもしれない。

恐れというものはすべて・・・究極的には創始者を否認することから生じる。

私たちの本質は永遠の中に実存するスピリットです。その存在を自分で消すことはできません。私たちは自分で自分を創造したのではないからです。神が創造したのです。

神は創造主でないと否定すると自分に平安をもたらす理由をも否定することになり、自分自身を部分的に見てしまう。
今の私たちは、自分をエゴの部分だけに分離してみてしまい、スピリットであることを忘れている。エゴを自分だと認めると、権威問題(誰が真のボスか)となり、恐れが生まれる。結局、エゴは自分が真のボスではないことをどこかで知っているからなんですね。だから、創造主である神を除外すると恐れがやってくるわけです。私たち自身は本来、創造主の一部なんですからね。

「まず、神の国を意図せよ」と言うがよい、そうすればあなたは「自分がなんであるかわかっているし、自分の受け継いだものを受け入れる(聖書の言葉)」と述べたことになる。