3章5知覚を越えて

Beyond Perception

昨日に引き続き、知覚についてですが、少しこぼれてしまったことを補足します。

私たちは知覚で世界を見ています。それはものごとを裁くような見方をすることであり、常に比較し、批判し、選択しているようなものです。
どれくらい細分化できるか、違いはどこか、批判や評価をすることがまるで頭のいい証拠のような錯覚をもっています。こうしていると、実は何事にも確信をもてなくなり、あいまいな選び方しかできなくなってしまいます。

レベルに分ける、選択をする、評価する、受け入れたり拒絶したりする、移行したり変えたりする継続的な過程。こうしたことは、裁くことと同じこと。

何かを裁けば、自分も裁かれます。誰かを批判すれば、この世界に裁くこと、批判することが存在すると認め、自分もそうなる現実を作りだしていることになるのです。差別をすれば、同時に差別されることも作り出しているのです。

正しく、明確に知覚すること。心はただ分かろうとするときのみ、適切に働く、それはスピリットに仕える立場からみることで、知覚の仕方が変わるのです。

私は以前、仕事であるタレントと打ち合わせをしたことがあります。その方はタレントというにふさわしく、お笑いや俳優、映画監督としても活躍されている方です。素顔はもの静かな方で、TVの画面で見る印象とはまるで違っていました。ほとんど打ち合わせも終わる頃、突然、私のどこかが本当の彼を見たのです。それは今まで見たこともないほど端正な方でした。(実際の容姿とは違って・・・失礼、これが分離した心、エゴの見方の例ですね。)その時、何をどう受け取ったのか、自分ではまったく分からないのですが、私は本来の姿を見たと思いました。ああ、この人の本質はこういう人なんだぁと。この体験が、あるがままに知覚するということかもしれないと今は思っています。
(それは確かに私はどんな批判も評価もなしに、その人と向き合っている間に起きてきたことでした。)

ただ誤って知覚したことがあなたの邪魔をしているにすぎないのだ。邪魔をするものがなくなれば、あなたが何を選ぶかは確かなこと。正気で知覚することが正気で選ぶようにさせるのである。
さて、ようやく今日のテーマです。

いったい自分は何なのか、とあなたは聞きつづける。これはその答えはあなたが自分でわかっている答えでもなければ、自分勝手に答えられるものでもないことを意味している。

今の私には『自分は何もわかっていない』と認めることが一番心が安定するとわかっています。そうすれば、エゴにああでもない、こうでもないといろんな答えをもってこさせることをやめられるのです。一度試してみてください。何か答えのでないことで思い悩むとき、「私は何もわかっていないので、答えることはできない」と自分に言ってみるのです。それで、どんなことが起きたか、私にも教えてください。

(自我の)巧妙な考え方はあなたを自由にする真理ではないが、自分でそれをやめる気になれば、そのように考える必要があるという思いからは自由になれる

判断も批判も、ただ「やめよう」と自分に言えばいいのです。心で人を裁いているときも、「これをやめよう」と自分に言えばいいのです。

あなたは自分こそ神の奇跡だという知識を失ってしまった。創造があなたの源であり、あなたの唯一の真の役目である。

もし、裁かれることはないし、完全に平等であるもの以外何もないとしたら、知覚することは不可能になる。真理がわかるだけのこと。真理に属するものはすべて等しく真実であり、そのいずれかの部分がわかれば、全部がわかる。

あなたの真価は疑いようのないものだから知覚を越えている。違った光のうちに自分を知覚しないように。あなたこそまさにその奇跡だということが完全に明らかな、唯一の光のうちにいる自分というものを知ってほしい。