3章4間違いと自我
Error and the Ego
神の国、ONENESS から分離した私たちは、分離した後に程度 (degrees) とか、側面 (aspects) とか、間隔 (intervals) とか、さらに分離して考えることを進め、それを知覚しました。そこには愛はありませんでした。そうして知覚することで、段階 (levels) があるという考えも浮かびました。
こうして段階を分けていくことで争いが起きるとキリストは話していますが、確かにそうですね、貧富とか、大小とか、先進後進といったふうなに細かく程度をわけて段階を作る考え方が争いを生んでいるのです。
ここは意味がとりにくいところは、ほとんどありません。
以下抜粋しておきます。
自我とは、心の正しくない状態で、自分自身をあるがままにではなく、むしろ自分勝手にそうありたいと願うままに知覚する試みといえる。
自我とは、分離後の自己の知りたがり屋の一面をさすのであり、それは創造されたのではなく作られたものである。それには質問をすることはできるが、意義のある答えを知覚することなどできない。
心は(自我によって)分離しているので、・・・なにがなんだかはっきりしないのは必然的。そんなに葛藤があるのは当然。・・・心自体が一致することはなく、恐れをともないがちになり、攻撃する可能性が出てくるのも当然といえる。
私があなたの意思と神の意思とをあなたのために結びつけることはできないが、あなたが誤って知覚したことを全部あなたの心からぬぐい去ることはできる。・・・あなたが自分で正しい選択をするように手助けすることはできる。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と(聖書で)言われるのは『みんな招かれている、だが耳を傾けようとする者はほとんどいない』とすべきである。