3章3知覚対知識

Perception versus Knowledge

知識( knowledge)は力であるというのはそれが確かだからであり、確実なものは強い。知覚 (perception) することは一時的なことだ。空間と時間を信じているために、その知覚することは、恐れか愛のどちらかになる。

キリストがここで言っている『知識』と、私たちの世界での知識とは明らか違います。それは平たくいうと、本当の自分(覚醒した状態)の『知識』を表しています。完全な自分へ戻ったときに、そこにある『知識』。それは真理を知るということです。

私たちの日常においての知識、認識、知っているとうことを、キリストは知覚と表現しています。知覚は英語で perception、日本語では、知覚(経験)、認知、知力、認識、理解となります。つまり、私たちの知識は、肉体がなければ成立しないものなのです。
知覚は変化するもので、確実性を伴わない。だから知覚は『知識』ではないとも語っています。

知識は啓示の結果であり、ただ思いを誘発する。知覚することはその最も霊化された形でさえ、身体を必要とする。知識は内なる祭壇ともいうべきところからくるのだし、それは確実なので時間を超越している。
真理を知覚するのと、その真理を知ることは同じではない。

知識は知覚と時間のどちらよりも先にあったのだし、究極的にはその二つにとって変わるだろう。これが「アルファとオメガ、初めと終わりである」と「アブラハムが存在する以前に、私は存在している」と聖書でいう本当の意味である。

つまり、すべての人が知覚することから、真理を知る、『知識』をえるようになる、それは知覚するより以前からあったのだから、と話しているのです。私たちが元々そうであったのだから、ということですね。

ここでのテーマ、知覚と『知識』の違いは、抽象的でわかりにくかもしれません。それこそ「一瞥(いちべつ)を得る」ような体験、覚醒をほんのちょっとでも垣間みるような体験があれば、理解の助けになると思います。瞑想を始めましょう。