3章 潔白な知覚 1犠牲を伴わない贖罪

THE INNOCENT PERCEPTION   Atonement Without Sacrifice

3章に入りました。
一般に語られている贖罪。それは、キリストが十字架にはりつけになって、人間の罪を引き受けた、キリストの死をもってあがなったというストーリーになっています。
けれど、ACIMのテキストでは、キリストはそうは言っていません。

はりつけになったことが贖罪を確立したのではなくて、復活したことで贖罪を確立したのである。

キリストは、人は身体ではない、あらゆるものを創造できるスピリットである。だから、身体を滅ぼした(はりつけの刑)としても、自分の意志で身体をもって復活することもできる。それが贖罪(誤った思考を正し、本来の自分に戻ること)を確立したということ。そして、人々にそう語っていたことを実証してみせたということなのです。

あなたが悪かったから私(キリスト)が「刑罰を受けた」のではない。
「邪悪」な過去は神とはまったく関係がないのである。それは神が創造されたのではないいし、持続なさることもない。神は天罰というものを信じていらっしゃらない。

『神』というとき、何か人格のようなものをイメージするのは間違いです。私たちすべてを包括する偉大な何か、すべての知識やシステムやありとあらゆるものを包括する何かなんだと私は思っています。

『なぜ神は、戦争や殺人、病気といったものまで創り出されたのか』と聞く人がいます。それらは、私たち人間の意識が誤って作りだしたもので、神とはなんの関係もないのです。神は、天罰など信じていないのですから。

私(キリスト)はあらゆる努力をして、意味を歪めるのはほとんど不可能な言葉を使うように心がけているが、もし、あなたがそうしようと思えば、いつでも象徴することをねじ曲げるのは可能だといえる。

ここではキリストが生きている間に語った言葉や行為が、後世に、歪んで捉えられてる例をいくつかあげているのですが、キリストはそれをとても残念に思われているようです。とくに「贖罪」については。

犠牲にするという考えは、神が思いつかれることなどまったくあり得ないことだ。

天国におられる御父が慈悲深くあられるように、あなたも慈悲深くあるべきだと言っておいたのを無視していることになる。

私(キリスト)が「世の罪をとりのぞく子羊」と呼ばれてきたのは
・・・それは私が潔白であるというきわめて平易な象徴である。
・・・純粋な心は真理を知っており、そのことがそうした心の力となる。・・・この子羊が「世の罪をとりのぞく」とは、潔白でありまた恩寵のもとにいる状態こそ、贖罪の意義が完全にはっきりしている状態だという意味である。

潔白であるものは邪悪を自覚していないので知識そのものであり、邪悪なものは存在しないのえある。しかしそれは真実であるものをなにもかも完全に自覚している。

この後も続きますが、このあたりはまるで祈りの言葉のようです。ただこの文章を読んでいるだけで、自分の心がとても平安になり、静まっていくのがわかります。

神のごとく潔白であるのが、御子の本当の心の状態である。