2章8最後の審判の意義
The Meaning of the Last Judgment
ここも私のテキストは赤い下線でいっぱいです。全部をここに入れたいぐらいです。ほとんどなんの説明もいらないでしょう。
あなたの考えによると、最後の審判こそがもっとも脅威を抱かせるような想念の一つだとしている。
キリスト教徒だけに限らず、死んだ後どこへ行って、どんな裁きが待っているのか、考えたことがない人はいないでしょう。天国へ行けるとか、このままでは地獄とか。名前は宗教や宗派によって違うとしても。あるいは無神論者であったとしても。
審するということは神のなさることではない。
神は私たちを裁かない。審判とは刑罰を与えることではなく、癒しであるとキリストは説明してくれています。
最後の審判とは正しく評価する過程だと言ってよい。それは単に、だれもがみな最終的には、何に価値があり、何に価値がないかを理解するようになるという意味にすぎない。
・・・究極的には、だれもがみな自分自身の創造したものをながめて、よいものだけを保存するために選ぶようになる。・・・心は自らが創造したものの真価に気づき、はじめて愛をこめて見ることができるようになる。
『時間の目的』とは、たんにこのように審するように『あなたに時間を与える』ことである。あなたが完全に創造したものを、自分で完全に審判するということ。記憶のなかにあることすべてが愛に満ちているなら、恐れを抱きつづける理由はなくなってしまう。こうなることこそ贖罪(誤りを訂正し、ONENESSに戻る)におけるあなたの役割である。
日々、自ら創り出すもの(思考、行動、あらゆる表現)が愛に満ちているか、自分で審判しながら生きていきなさい、ということだと思います。そして、過去にあったことも、愛に満ちた記憶だけをとどめておくようにと。それ以外はすべて私たちの誤った心が作りだしたこと、思い出すことをやめれば、それは存在しなくなります。