2章3神の祭壇

The Altar of God

心が携わる多くの肉体的な空想は、からだを『罪のつぐない』を果たす手段として使えるという歪んだ信念から生ずる。

キリストが十字架に架けられたのは、人間の罪をすべて引き受けて贖う(あがなう)ためであった、という考え方は間違っているということは、テキストで前にも出てきました。
     http://d.hatena.ne.jp/karuna10/20110127/p1

歴史的にキリスト教的思想の影響が少ない日本においても、からだで罪を贖う、償うという考えは根深くあります。たとえば、武士の切腹ですね。現代においても「死んでお詫びをする」という考えが潜在的に残っていると思います。

どうしてそんなふうに考えるようになったのでしょうか? 
からだにどんな意味をつけているのでしょうか?
私たちがからだを自分自身であり、唯一無二のものであり、
自分が差し出すことができる最上のものであると考えているからでしょうか?

私たちの本来の姿はからだ(身体)ではありません。
ですから、からだで償うという考え方は空想の産物なのです。

聖書では、からだを聖霊の宮と表していますが、それは、からだに対する誤解を正すために使われている言葉です。からだ(物理的なもの)では贖罪はできないことをまず知って欲しいとキリストは説明しています。

そして、次の段階で悟るべきことは、
いやしくも聖霊の宮とは建物(からだ)をさしているのではないということ。
それの本当の神聖さは内なる祭壇にあり、そのまわりに建物を建てることになる。
みごとな建物を強調するとすれば、それは贖罪を恐れていて、祭壇そのものに達するのには気が進まないということを表している。

私たちはからだではない。大切なのはその内側にある神聖な祭壇(スピリットが宿る場所)、それは目には見えないもの。それなのに、からだを見事にすることばかりに心を奪われていれば、それは自分の人生で贖罪(自分の誤解していることに気づき、訂正する)を恐れ、霊的な祭壇を見る気がないということを表している、と言っています。

今の世の中では、身体がどれだけ美しいか、見事であるかということに人々の関心は向いています。でも、一方で気づいている人たちもいます。外側ではない、心の在り方が大切だと。

聖霊の宮の本当の美しさは、肉体の目で見ることなどできはしない。

贖罪には申し分ない効力があるからこそ、内なる祭壇の中心となるにふさわしく、そこで分離をもと通りにし、心を完全なすがたに回復させるのである。

ここで私の一番好きなパートは下記です。

結局は誰もが、もっといい道が必ずあるはずだと、どんなにかすかではあるにせよ、気づき始める。こう気づいたことをさらにしっかりと確信したとき、それが重大な転機となる。

神と神が創造なさったものは、全面的にお互いに依存しあう。神が完全に創造なさったものだからこそ、頼りになさるのである。

神の子は、この世は分離を癒すための手段だとみなすことを学ばなければならない。