2章2防衛としての贖罪

The Atonement as Defense 

奇跡にできないことは何ひとつないが、疑ったり恐れたりしていたのでは成しえない。

何かを怖がるとすれば、自分を傷つける力がそれにあると承認していることになる。

誰にも自分を傷つるけることなどできない。それを自分が認めない限りは。マライア・キャリーの歌に Can't Take That Away という曲がありますが、まさにそういう感じですね。
歌詞の和訳 http://kashiwayaku.net/mariahcarey/canttakethataway.php

正しい心に仕えるうちに、間違いを否認することで心を自由にし、思考の自由を確立し直すのである。

自分がもっている間違いを正すことが贖罪(しょくざい)です。

たとえば、私たちが『誰かに傷つけられることが可能だと思うこと』は間違いである。
そして、『自分が比較することや批判することができると思う』のも間違いだ、と心底、正すことができれば、それによって癒しがおきます。

誰のことも傷つけることなく癒されます。それが、贖罪です。

そうして、クリアになって思考の自由を確立するわけです。

怒ったり、いじけたり、ひがんだり、傷ついたりしないで、すっきりと考えられる人になるというわけです。それが起きてくるのが奇跡であり、これから学んでいく道です。

誰もみな自分の宝を守るのであり、また自動的に守ろうとするだろう。本当の質問は、何を宝として蓄え、それをどれほど大事にするかである。いつもこうした質問をまず考慮したうえで行動に移す事をいちど習得したら、その手段をはっきりさせるのは容易だろう。

何を宝と思い、大事にしているのか、それはどれほど大事なのか。
自分がどこに立っているのかを問われているような質問ですね。

たとえば、親子や兄弟や恋人と言い争ったりするときも、
本当は愛してるでしょ、
今やってることはそれに合ってるの?
何を本当に大切にしたいの?
そう、自分に問いかけなさいということですよね。
そうして生きていくと、どんどん問題は少なくなっていく・・・。

贖罪はいわば誠心誠意したがうと決心すること。

自分は何が正しいのかをわかっていない、と理解できれば、従うのはたやすいことです。しかし、自分はわかっていると思っていると難しいかもしれませんね。

この章ではまだ、本質的なことを言っているけれどさわりだけ、みたいな感じです。キリストはとても親切です。これから先々で、もっとわかるように話してくださいますからね。

奇跡が贖罪という防衛力であなたを本当に守るのであり、自分が安全だと確信を持てるようになるにつれて、あなたは自分がきょうだいであり子であるとわかってきて、他の人たちを守るという、生まれながらの才能を自分のものとするだろう。