1章7奇跡への衝動の曲解

Distortions of Miracle Impulses

私たちの内側には、神の国、ONENESS の戻りたいという衝動 (Impulse) があるらしい。
それを私たちは肉体的な衝動と混同しているとキリストは語ります。

本当の喜びはすべて、神のご意志を行うことからくる。

神の子供よ、あなたが創造されたのは、善なるもの、
美なるもの、聖なるものを創造するためである。
これを忘れないように。

私たちはからだを通してしか知覚できないので、本当の洞察力をもっていないとキリストはいいます。
しかし、知覚 (perception) を広げるのにはからだは役立つようです。
具体的にどうするのかは、これから先の章に出てきます。

この現実は自分たちのイメージ(空想)で作りだしたのですが、
それは実在しないものを見ようとしているので、必然的にねじ曲げて知覚しようとする。
心の洞察の目でありのままに見ていないのですね。

そして、それを自分自身にだけ本当のことにしている。

あなたは自分で作るものを信じる。もし、あなたが奇跡をさしのべるとすれば、あなたの奇跡に対する信念も同様に強いものになるであろう。

私たちは強固にこの世界が現実だと信じています。その強い信念を同じように奇跡に対して使えば、きっと奇跡は起きてくるのでしょう。

この奇跡の道の教えは心を訓練するためのものである。
学ぶといういことはすべてある程度の注意力と絶えざる努力を要する。

ここで第1章は終わりますが、最後にもう一度キリストは畏敬の念について語っています。この部分は過去のブログでは触れていませんが、
第1章2 啓示と時間と奇跡 でも語られています。
それは、畏敬の念と恐れを混同しないように、という注意です。
畏敬の念は神に対してのみ覚えるべきもので、キリストやきょうだい(人々)に対して畏敬の念をもつことはふさわしくないと重ねて話しています。すべての人は平等であることを忘れないで、注意深く進みなさいとアドバイスしています。

原文(翻訳)をていねいに読めばよくわかるところを、私が抜粋しているのでかえって、判りにくくしているのではないかと反省しています。この短くした文面で興味をもっていただけるといいのですが。
次は第2章に入ります。