1章5完全であることと霊
Wholeness and Spirit
あなたが、からだの内にいると信じる間は、愛の伴わない表現をするのか、奇跡的な表現を通すのか、そのいずれかを選ぶことができる。
ここでいう奇跡的な表現とは、これから学んでいくのですが、ポジティブに考えるとか、平等であるとか、批判をしない、裁かないといった、さまざまなことを実践して生きていくことだと思います。
すべての者が時間から究極的に解放されたときには、そこでは神と子は一体である。
神の子たちが特別だといえるすがたになるのには、だれかを排除することによってではなく、みんなを含むからだ。
この世界にいる人々の真の姿は、全員が神の子でありスピリットなのです。そして誰ひとり欠けることなく、神の国、ONENESSに目覚めることで、完全に目覚めることになるのです。それが 究極的には求められています。あと何千年、何万年、何百万年かかるのかはわかりませんが・・・。戻ってしまえば、そこは時間のない世界です。だからといって、ぐずぐずしていてもいいということではありません。
奇跡を行う気があるものにとっての基本的なきまりは、必要以上に時間を待たないということである。
何もしないでも時間は過ぎています。一度、自分は目覚めると決めたら、必要以上に時間をかけないようにとキリストは言っています。
真実であるものは永遠であり、変わることはできないし、変えられてしまうこともない。したがって、霊はすでに完全であるから変更できないものであるが、心は自ら仕えたいと思うものを選べる。
私たちの心は、真理を生きるのか、この錯覚の物質世界を生きるのか、選ぶことができるのです。そして、物質世界こそ現実だと選び、自分が立っているところを幻想の上においているので、私たちは不安定で、
安定感を増す助けになるものなどなにもないのである。
この世で、安定していると思っていても、それは一時的です。どんな権力者でも自分がいつどうなるかわからないのです。そして、死は誰にでも訪れます。不変なものはありません。安定感という言葉は、でも永遠ではないという言葉とセットになっているんですよね。ただ、一瞬忘れているだけで。この世はそういうところです。
テキストでは、もっと説得力のある言葉でたくさんのことが語られていますが、今日はここまでにします。