1章3贖罪と奇跡

ACIMのテキストを読んで私なりに気づいたこと、学んだことを書いていこうと考えていますが、このブログで要約とか解説を期待されると違うかもしれません。テキストを読んで思うのは、イエス・キリストは無駄なことは言っていないということ。すべての言葉が意味があって語られています。

私にできるのは、自分自身で『うーんそうか』と思ったことを書くことだけです。それは読む度に違っています。前には気づかなかったことに気づくこともあるし、前にはわかったと思って読み進んでいた箇所が、わかっていなかった、誤解していたと気づくところもあります。日々思うのは、私は本当に何もわかっていないなぁということです。

ブログは、テキストの順番通りに進みたいと考えていますが、今後もそうするかはわかりません。自分が書いてて楽しい気持ちでないと、たぶん伝わらないでしょうから。

今日は、第1章の 贖罪と奇跡 Atonement and Miracles の項です。

贖罪(しょくざい)はキリスト教徒やユダヤ教徒の方々には特別な意味があるようです。キリストは、人類の罪の身代わりの象徴として聖書で語られています。キリスト教徒でない私にも、十字架にかけられている彼の姿が思い浮かびます。

しかし、ACIMで語られる贖罪はそういうことではないのです。キリストは『贖罪は私が言い出して、私が担当にしてもらった仕事です。それは人々が誤解していることを正すことです』と言っています。私たちの身代わりになるのではなく、私たちを導くためにいるのです。

私の声を聞き、誤りをもと通りにすることを学び、正すことにつとめてほしい。奇跡を行う力はあなたのものである。私がそれを行う機会を用意するが、自分で覚悟をきめて進んで行わなければならない。

神の子たちにとって本来の仕事である贖罪がその目標となる。

許された者はきょうだいを解放することにぜひ加わるべきである、これこそ贖罪の計画である。

自分が誤ってこの世を見ていたことに気づいた者は、他の人々も目を覚ますように手伝いなさい、ということですね。

自分自身の神聖さをまず知覚 perceiveし、それからほかの人たちの神聖さに目をむけるべきだといえる

自分自身のことを正しく理解する、そうすれば隣人の神聖さにも気づくことができ、隣人に対してふさわしい振る舞いができるということです。
聖書で語られている誰かにしてほしいと思うことを、自分がまずその人に行うようにと求めるというのは、このことを言っているのです。自分が(私は霊である。自分は神聖な存在である)と理解するのが先ということですね。

私たちは誤って現実(と思われる世界)で生きていると思ってる。真理はそうではなくて、私たちは神の国(ONENESS)を一度も出たことがないと教えてくれています。自分がどういう存在なのかを正しく理解し、その在り方へ戻っていく。それが贖罪です。


霊は永遠に恩寵のもとにある。Sprit is a state of grace of forever.
あなたの実在はただ霊のみである。Your reality is only spirit.
したがってあたなは永遠に恩寵のもとにある。
             Therefore you are in a state of forever.

贖罪はすべての誤りを元どおりにし、こうすることで恐れを根絶する。