19章8 苦痛の魅力 その2

The Attraction of Pain

8節の最初は、平安を受け入れてそれを認め、自分の中で広げていきなさい、という話でした。

そして、永遠なるものは、私たちの中にあって平安と不滅のものだけと一緒になれると続い
ています。ここでも、身体は私たちの仮の姿であり、私たち自身ではないということが
強調されているのです。
身体は手段であって、目的ではない、とこれまでも繰り返し教えられてきました。
しかし、現実をみると身体を維持するため、美しく健康に保つために、
私たちはたくさんの時間とエネルギーを掛けています。身体はただ生きる手段であり、
目的ではないはずなのに、それを忘れてしまっているのです。
人生の最大の目的は、目覚めて幸福に生きるということです。
ですから、ここでも繰り返し教えられます。
身体を中心とした在り方、考え方、生活を見直しなさいと。

You have not sinned, but you have been mistaken in what is faithful.
あなたは罪を犯してはいない、ただ何が信頼に値するか誤解している。

Under fear's orders the body will pursue guilt, serving its master
whose attraction to guilt maintains the whole illusion of its existence.
恐れに命令されて、からだは罪責感を追い求め、からだが存在するという全錯覚を
罪責感の魅力で維持させているような主人に仕えているのだから。

This, then, is the attraction of pain.
これがすなわち、苦痛の魅力である。

It is this idea that underlies all of the ego's heavy investment in the body.
こんな想念に基づいて、本格的に自我はからだに大きな投資をしているのだ。

To you it teaches that the body's pleasure is happiness.
(自我は)あなたにはからだの快感は幸福そのものだと教える。

Yet to itself it whispers, "It is death.
ところが、からだ自体には「これは死だ」、とささやくのである。

Not one but must regard the body as himself, without which he would die,
and yet within which is his death equally inevitable.
だれもが、からだそのものが自分だと思い、自分はそれなしでは死んでしまうし、
かといってそのからだをもった自分の死も同様に避けられないと思っているに違いない。

It is not given to the ego's disciples to realize
that they have dedicated themselves to death.
自我の弟子たちは、自分で自分を死にささげているということを悟っていない。
自分自身を身体と見なために、罪悪感に囚われる、そして同時に怖れの虜になる。
その虜になっている状況を私たちは苦痛/快楽であり、魅力的であると思う。
その誤解を解きなさいと言われています。

自分が信じるものを受け取ります。死はあるのでしょうか。
それとも私たちは不滅の存在なのでしょうか。あなたはどちらを選びますか。

So be it