19章7第二の障害  

からだの価値はそれが何を提供するかで決まると信じること
The Second Obsacle: The Belief the Body is Valuable for What It Offers

罪悪感をもったまま、心に平安を招くことはできません。
私たちは罪悪感などないと思ってしまします。しかし、よくよく内面を見ていくと、
自分は幸せになる価値がないとか、幸せになるはずがないとか、人生はうまくいかない、
思う通りなることなんてないという信念をもっていることに気づきます。
それはすべて、自分に罪があるという信念を隠し持っているからなのです。

私たちはこの現実をみんなで作り出しています。
ここには、不幸や、不平や、不満や、不調和、不平等はあたりまえのようにあります。
しかし、実在の世界にはそれはありません。私たちが間違って見ているだけなのです。
その間違いを手放し、クリアにこの世界を見るようになると、平安がやってきます。

この節では、平安を招くのに障害となる2つのことをとりあげています。
ひとつは、平安を望んでいない心。罪悪感で一杯では平安は入り込めません。
もうひとつは、

he second obstacle that peace must flow across,
and closely related to the first, is the belief that the body is valuable for what it offers.
平安が流れ込まなければならない二番目の障害は、最初のと密接な関係があり、
からだの価値はそれが何を提供するかで決まると信じていることである。

身体を自分ではないと信じることはとても難しいことです。
しかし、私たちの実在は意識であり、身体はその意識の乗り物なのです。
そのことに気づくことは、

Is it a sacrifice, or a release?
それは犠牲をはらうことだろうか、それとも開放されることだろうか。

自分が身体だと信じる限り、私たちは死の恐怖から逃れられません。

The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body,
calling the mind to join in holy communion and be at peace.
聖霊の使者たちはからだをはるかに越えて送り出され、
聖なる霊的交わりに加わり、平安をあじ合うように、と心に呼びかけている。
・・・
Is it a sacrifice to be removed from what can suffer?
苦しむ可能性があるものから離れるのは犠牲を払うことだろうか。
・・・
You want communion, not the feast of fear.
あなたが望むのは恐れの饗宴ではなくて、霊的交わりである。

You want salvation, not the pain of guilt.
罪責感から生じる苦痛ではなくて、救いを望んでいる。

And you want your Father, not a little mound of clay, to be your home.
そしてあなたは自分の発祥の地は、
一にぎりの土ではなくて、御父であってほしいと願っているのだ。
・・・
The end of guilt is in your hands to give.
罪責感を終わらせるのはあなた次第。

Would you stop now to look for guilt in your brother?
あなたのきょうだいのなかに罪責感を見つけようとするのは、
もうやめてくれないだろうか。

And in the light of your forgiveness he will remember who he is,
and forget what never was.
そうすればあなたの許しの光りのなかで、その人は自分がだれなのか思い出すし、
実在しなかったことなど忘れるだろう。

誰の中にも罪を見ないこと。許すこと。
それだけで、私たちは解放され、自由になれるのです。

So be it