19章6罪責感の魅力

The Attraction of Guilt

私たちはさまざまな怖れを感じます。人に認められないんじゃないか、
愛されていないのではないか、正しい評価をされていないのではないか、
攻撃(いじめ・いじわる)されているのではないか・・・。
こんなふうに感じるときは、怖れを通してこの世界と人間関係を見ているということです。

あるがままの自分でこの世界にいていいんだ、ということを疑っているとき、
私たちは罪の意識からくる怖れに支配されてしまいます。
愛を信頼できないでいると、人間関係はこじれ崩壊していきます。

The world contains no fear that you laid not upon it.
この世界には自分で置かなかった恐れなど一つも無い。
・・・
The body does appear to be the symbol of sin while you believe
that it can get you what you want.
あなたがからだで自分の欲しいものを手に入れられると信じるうちは、
それが罪の象徴のようにみえることは確かだ。

While you believe that it can give you pleasure,
you will also believe that it can bring you pain.
それに、そんなからだが快楽をもたらしてくれると信じるうちは、
からだが苦痛のもとになり得るとも信じるだろう。

To think you could be satisfied and happy with so little is to hurt yourself,
and to limit the happiness that you would have calls upon pain to fill your meager store
and make your life complete.
ほんの少しで満足し幸せになれると思い込むと、自分自身を傷つけることになるし、
手に入れる幸せを制限しようとすると、自分の乏しいたくわえを満たすために苦痛を要求し、それで自分の生き方は申し分ないとすることになる。

This is completion as the ego sees it.
自我にしてみれば、これこそ完ぺきである。

For guilt creeps in where happiness has been removed, and substitutes for it.
幸せが取り除かれたあとに罪責感がしのびこみ、それに取って代わるわけだから。

Communion is another kind of completion, which goes beyond guilt,
because it goes beyond the body.
聖餐、すなわち霊的交わりはもう一つ別の種類の完ぺきさであり、
罪責感を越えるものといえるが、それはからだというものを越えて広がるからである。

私たちの真実の姿は、この身体を超えて広がる存在です。
この身体を使うことによって、自分の人生の満足を得られると信じるのは、
それは自分の可能性を制限をしていることになります。
私たちが聖霊とつながるとき、もっと大きな創造の流れに乗ることができるのです。

So be it