19章2罪対間違い

Sin versus Error

私たちは罪を犯したと思っています。たとえ小さな罪だとしても、
罪悪感から自分を責めています。しかし、奇跡のコースでは、
罪などない、ただ間違いがあっただけだと教えます。
自分に罪があると考えるのは、傲慢であり、心を攻撃し合うことができる
という信念をもっていることを表明しているからです。
心を攻撃し、傷つけ合うことができる、というのは錯覚なのです。
私たちは、ただ間違えているだけです。自分を含め誰にも罪はありません。

It is essential that error be not confused with sin,
and it is this distinction that makes salvation possible.
間違いを罪と混同しないようにすることはきわめて重要だし、
この区別が救いを可能にするのである。

For error can be corrected, and the wrong made right.
間違いは訂正できるし、不正は正せるのであるから。

But sin, were it possible, would be irreversible.
しかし罪は、それが可能だとすれば、取り返しがきかない。

The belief in sin is necessarily based on the firm conviction that minds,
not bodies, can attack.
罪を信じるということは必然的に、
攻撃できるのはからだではなくて心だとの強い確信に基づいている。
・・・
But he cannot sin.
しかし、罪を犯すことはできないのである。

宗教においては、潔白であるとするのは傲慢であり、人は罪深いものだと受け入れなさいと教えています。
しかし、そうではないとここでは話しています。
罪の概念は自我を守るためのものです。
罪の意識が土台になっているこの世界は、真理によって訂正されます。
こんなことは、単なる間違いであると。

自分の思考や感情をよく見てみましょう。
起きてくる出来事に、すべていい、悪い、悲しい、苦しい、憎いなど、自分でラベルを
貼っています。そして、過去の記憶、思い出にも何度もラベルを貼り直しています。
それは、真実ではないので、自分で気づいていつでも貼り替えることができるのです。

試しにやってみてください。いつも自分が思い出すシーン。
たとえば、いつも孤独だった、でもいいです。それは、本当にそうだったのでしょうか? 
起きて来たことを別の言葉で替えることはできないでしょうか? 
誰かが見てくれたいたことに気づかないだけだったのではないでしょうか? 


自分で選んでしまったラベル(意味づけ、印象、感情)をあなたは、
いつでも訂正することができるのです。それは、とても心が軽くなる気づきです。


Perhaps you would be tempted to agree with the ego
that it is far better to be sinful than mistaken.
もしかしたら、あなたは間違っているよりも罪のあるほうがよほどいい、
といって自我に同意したいような気になるかもしれない。

Yet think you carefully before you allow yourself to make this choice.
だがそんなことを自分に選ばせる前に、よくよく考えてほしい。

Approach it not lightly, for it is the choice of hell or Heaven.
軽々しく扱ったりしないことだ、これこそ地獄をとるか天国をとるかの選択であるから。

So be it