19章3罪の非実在性

The Unreality of Sin

ここも罪はないという話です。
私たちは、自分に罪があると深く信じています。そして、その罪悪感あるので、
怖れをもっています。自分の罪のために罰せられるという怖れ、
そして死ぬという罰がやってくるという怖れです。

罪を感じること、有罪であること、後ろめたさ、暗いところを歩くこと、邪悪であること、
秘密があること、神に背くのはどこか魅力があるように思います。
それは、文学、歌、映画、ドラマの中にも溢れています。
私たちは罪を魅力的だと認めているのです。

そして、邪悪であることは人間の本性の一部であるかのように認めます。
それが本物である証として、実際に刑罰も作り出しています。

What, then, is sin?
罪とは何だろうか。

What could it be but a mistake you would keep hidden;
a call for help that you would keep unheard and thus unanswered?
それはあなたが隠したままにしておこうとするただの間違い、
助けを求めて呼びかけながら、それを自ら聞いてもらえないようにしておいて、
答えてもらえないでいるようなものではないだろうか。

罪は隠しておきたい間違いだと、奇跡のコースでは教えます。
人は隠しておきたいのです。自分が悪いと思っているから。
でも、それを光の中に出した時、それは罪ではなく、ただの間違いだったと気がつきます。

すべての人、ひとり残らず、神の一部です。人に罪があるなら、
神(すべて、ありてあるもの)にもあることになります。
そんなことがあり得るでしょうか? 

he must be split, and torn between good and evil; partly sane and partially insane.
神は分裂して善と邪悪とに引き裂かれ、部分的に正気のところもあれば、
狂気の部分もあるということになってしまう。

そして、話は私たちが罪悪感を感じるものの一つ、性欲に移ります。
私たちは身体で、誰かとつながっている、ひとつになるには、
身体の一部でつながることが必要だと信じています。

While you believe that bodies can unite,
you will find guilt attractive and believe that sin is precious.
からだとからだが一つになれるものと信じるうちは、罪責感に魅力を感じるうえに、
罪は貴重だと信じる。

For the belief that bodies limit mind leads to a perception of the world
in which the proof of separation seems to be everywhere.
なぜなら、からだは心を制限するという信念が、分離状態を証明するものは
いたるところにあると思えるような世界を知覚させるからである。

私たちは身体ではありません。ですからセックスで結びつくというのもただの幻想です。
そこにある罪悪感も、ただの隠しておきたい間違いです。
少し滑稽な気がするのは、私だけでしょうか。
罪と思って隠していたことは、ただの間違いなんです。
あれは間違いだった、手放そう。そう選択すればいいのです。
それが訂正するということです。

For in the new perception the mind corrects it when it seems to be seen,
and it becomes invisible.
新たな知覚のしかたをするうちに、心は罪が見えそうなときにはそれを訂正するので、
見えなくなるわけだ。
Errors are quickly recognized and quickly given to correction, to be healed, not hidden.
間違ったことは即座に気づかれ、すぐに訂正にまわされ、隠すのではなくて癒されることになる。

相手の中に罪を見ないこと。
罪を見ようする自分に気づいたら、すぐに訂正することです。

今日は、私は人を指差しながら話をする人と会食をしていました。
マナーとしてどうかなぁ、と思いながら席についていました。
会食が終わって、ひとりで歩きながら思いました。
「あぁ、マナーとか常識とか言いながら、私は非難をしたかったのかもしれない。
相手の中に罪を見ようとしたんだ。何も悪いことなどしていなのに。
私が間違っていると決めつけないで、相手に罪を見なければ無垢であるのに」と。

相手に罪を見れば、自分の中にも見ます。
人を無垢だと認めれば、自分も無垢だと認めるということです。

And you will help each other overcome mistakes by joyously releasing
on another from the belief in sin.
そしてあなたは、罪を信じることからきょうだいを喜んで開放してあげることで、
その人が間違いを乗り越える手助けをすることになる。
・・・
Look not for what has been removed,
but for the glory that has been restored for you to see.
取り除かれたものを捜そうとせずに、自分のために回復された栄光を見つめることである。
・・・
For sin would keep you separate, but your Redeemer would have you look upon
your brother as yourself.
罪はあなたをきょうだいから引き離しておこうとするものであるから、
だが救世主は、あなたのきょうだいをあなた自身として見るようにさせてくださる。

So be it