15章11 犠牲を終わらせるクリスマス 

Christmas as the End of Sacrifice

なぜか、犠牲になることは美徳のように思っている自分がいます。しかし、犠牲は攻撃することと同じだとコースでは説いています。どういうことでしょうか。

このクリスマスには、あなたを傷つけるようなものをすべて聖霊に渡すがいい。・・・苦しみが我々にもたらされても目の前で消え失せるし、苦しみがなければ犠牲もないはず。そして犠牲がないところにこそ愛があるのは確かである。

犠牲行為が愛だと信じる者は、犠牲になるとは愛から離れるという意味だと分るようにならなければいけない。犠牲になって罪責感を抱く羽目になるのは確実、それと同じく愛が心に平安をもたらすことは確かである。

あなたが身体を自分の真実の姿だと知覚する限り、自分は孤独で恵まれない身だとみなすだろう。その上、自分自身を犠牲になった被害者だと知覚したりするあいだは、当然ほかの者を犠牲にできるものとみなす。

自分は本当に何かを奪われていると信じ込み、だからこそ取り戻そうとするなら、どうやって自分で達成できるだろうか。奪われているという思いは、攻撃は正当化されると信じることなので、それが攻撃の原因となる。奪われていると思い続ける限り、攻撃することは救いとなり、犠牲になることは愛だということになってしまう。

そうして、必死に愛を捜しているつもりで、犠牲を求めそれを見つける。しかし愛は見つからない。愛が何であるかを否定しておいて、それを見分けようとしても不可能である。

犠牲になることで自分を守れるとか、犠牲になって何かを奪われているから、攻撃してもいいとか、攻撃することは救い(解放)になるとか、逆に犠牲になることは愛だとか、それは全部間違った認識であると説いています。犠牲になることで、恨みつらみを募らせて、攻撃をするのは目に見えていることだからです。それがたとえ、心の奥で行われているとしても。クリスマスなんだから、精霊とこころをひとつにして、私たちの心の癒しを行おう、犠牲や怒りや、それに伴う罪悪感を手放そうと話しています。

私たちの心の中にある、闇の部分。私たちが見ないようにしている部分。それを精霊に差し出すこと。難しいことを言っているのではありません。自分が好んで犠牲になっていることや、攻撃したり、恨んだり、罪悪感を感じたりすることに気づき、それを手放す。ただ、精霊にこれを持っていってほしいとお願いする。そうして、心の闇に光を当てるのです。自分の心を癒し、解放されるなら、そこには平安があるのがわかります。そうして初めて聖なる一瞬が訪れる準備ができるのです。